サケ その1

動物編

山形県内でもサケの採捕場があることを知った。山形新聞によれば日本海側の遊佐では捕って採卵し人工授精させて放流しているという。私は東日本大震災の前には毎年十月頃になると、福島県楢葉町の木戸川の採捕場によく行ったものである。太平洋から木戸川に入って間もない場所で川を堰き止める網を張って、その一角に鉄でできた檻のようなもの(ウライ漁)を仕掛けておくと、流れに逆らって登ってくるサケが、その鉄の檻に入り込んでしまう。この木戸川では年配の漁協の人たちが、網を持って共同して取り囲んでサケを捕獲する漁も行っていた。その川の土手ではその漁を見るために大勢の人たちが見学していた。そして捕ったサケは一本のままや半身にしたものを売っていた。また捕れたイクラも販売していた。

また宣伝を兼ねて一枚の大きなカレンダーを毎年箱に筒状に丸めて自由に取れるようになっていた。私は毎年そのサケの写真が載っているカレンダーを貰って壁に貼っていた。それが東日本大震災の東京電力第一原子力発電所の放射能汚染で住民避難になって放置されたままになっていると聞いていた。来年には(二〇一六年)再開するとの情報もまた得ているのであるが。

山形県では、内陸の鮭川村でウライ漁によるサケの捕獲と、採卵し人工授精させて放流していると山形新聞で知った。その写真を撮りたいと十一月末に出かけて行った。新聞に鮭川村川口の泉田川と書いてあったので、カーナビにその住所を入れて行っものの鮭川村そのものが広く、雨模様だったせいもあるが殆ど人を見かけなかった。ごみ収集している人をやっと見つけてサケの採捕場はどこかと尋ねた。おおよその道筋を教えてくれたがそれでも分からず、結果的に町役場に出向いて教えてもらった。とても親切にその場所を教えてくれたが、孵化場には今の時間には人がいないかも知れないと言われた。

泉田川にかかる橋の手前の土手の横道に下ったところに孵化場があった。その建物の壁には、「鮭ふか場 最上漁協」と記されていた。その建物の脇の道路に車が三台停まっていた。入り口の戸をノックして入った。中に入ると高齢の男性と中年の女性二人が休憩の時間なのか、休憩室でお茶を飲んでいた。孵化の様子を見たいのだがと話すとその部屋に入るように促されて椅子に座ってコーヒーをご馳走になりながら、色々な話を聞くことができた。

鮭川村の由来は村を貫流している鮭川からとったもので、随分昔からサケが遡上して来てそれを捕る漁が行われてきたという。この孵化場は昭和五十五年に作られたもので、それ以来人工授精させて放流している。その放流には小学生も参加している。またこの孵化場の最上漁協は、戸沢村、鮭川村、真室川町共同のもので、それぞれ捕ったものをここに運んで選別して孵化させている。この泉田川以外でもサケの捕獲が行われているようである。

私が福島県の楢葉町の木戸川の話をしたら、毎年十月にはサケ祭りをしているが、ある年にサケの数が足りなくてなって、福島県にサケを買いに行ったことがあったという。鮭川村に着く前に半分ほどが死んでしまったと話してくれた。サケ祭りの時にはサケの掴み取りがあり、生きたサケが必要だったとのことだった。

私はサケが日本海側の川に遡上してくることも不思議だし、それが酒田の最上川の河口から鮭川を経て泉田川の内陸まで上がってくるのはとても不思議に思う。サケの稚魚は太平洋に出て、アメリカ沿岸まで行っている。行く時も帰る時も津軽海峡や宗谷海峡を通っているに違いなく、そうして三年後に戻ってくるサケの旅を考えると驚嘆しないわけにはいかない。しかも鮭川村は酒田から六十キロ内陸にあり、稚魚の時に放流された場所に帰巣する本能も大したものだと思う。諸説あるようだが、川の水の匂いや味が刷り込まれているのだろう。刷り込まれた匂いや味は終生消えないのだと推測できる。

その話の後で孵化の様子を写真に撮らせてもらった。その部屋を出ると箱状のものが一面にあり、その箱に流水が流れ込むようになっていた。箱にはカバーが掛けられていたがカバーを上げて初めに見せてもらったのは、卵がネットの上にたくさんあるものだった。しかし、そのたくさんある卵は橙色の透明のイクラの状態のものと白濁した白い卵が混じっていた。「この白い卵は死んでいるのですね。」と尋ねると、そうだと答えてくれたがその割合はかなりのもので私が考えていた以上に白濁した卵が多かった。次の箱はほとんどが白くてそれは他の川で捕って運ばれてきたものだという。採卵して人工授精させる技術に差があるのではないかと思った。

の次の箱には孵化したサケの稚魚がいくらかいたが、卵黄が大きいので卵の上に稚魚が乗っかっている感じで、尾びれを動かしているが泳ぎ進める雰囲気は全くなかった。その次の箱には殆ど稚魚になったものを集めていると話してくれた。カバーを上げて中のネットを持ち上げると、稚魚が重なり合って泳いでいた。これらの稚魚は卵黄もなく、本当の稚魚であった。餌はどうするのかと尋ねたが、説明してくれた女性はまだ餌はやっておらず、やる餌は届けられていないと話した。その人はどんな内容の餌なのかは分かっていないようだった。見せて貰って写真を撮ってから元の部屋に戻ろうとすると、男性がバケツに入った一尾の稚魚を見せてくれた。その稚魚は一個の卵黄に双頭になっている稚魚だった。たまにはこうした稚魚が出ると話してくれたが、年によって割合が多くなる年があるという。奇形であるが一種の一卵性双生児のようなもので、卵の分割がきちんとできなかった可能性がある。でも私はこうしたことを全く予想していなかったので驚いた。

お礼を言ってから泉田川が鮭川に入る手前にあるウライ漁の場所に出掛けた。前日から雨が降っていたので、水が濁っていて中の様子がはっきりと分からなかった。ウライ漁では川を堰き止めてサケが登れないようにして、その一部に鉄の檻を置いておく。その檻には縦に鉄の柱が並んでいる。その檻の中央部が、上から見ると内側に三角になっていて、その先端の鉄の柱の間隔が少し広くなっている。何とか川下から川上に行こうとするサケは、その柱の間隔をすり抜けて中に入ってくるが、逆に戻ることはできない構造になっている。漁は朝の六時頃から行う。その檻に人も入って網にサケを入れて引き上げ、河原のビニールシートを敷いた板台の上に放り投げて棒で頭を叩きつけ殺してしまう。サケの肉質や状態を保つためだと思われる。その後バケツにメスの腹を押してイクラを押し出し、次にオスの精子をかけて搔き回すのが手順である。

私がその場所に行った時は十時頃だったので誰一人いなかったが、そのウライ漁の鉄の檻の様子と、鮭川と泉田川の合流点までごろごろした石だらけの河原を歩いた。その途中にサケらしい動きをする水の動きがしたり、向こう岸側では背びれが見えたりしているが、写真を撮ろうとしても取れなかった。何匹ものサケが水中で泳いでいるのは察知できた。合流点まで行く途中で、河原にサケが二匹死んでいた。北海道辺りでは「ほっちゃれ」と言うと聞いたことがある。日本海から最上川を登って来る距離の長さや子孫を残す営みを考えると、その帰巣能力と種を繋ぐ生命力の凄さを感じない訳にはいかなかった。写真を撮っていたらその場所に軽トラックに乗った男性が来て、「私が写真を撮っているのだ。」と話すと「もう今年のサケ漁は終わりだ。」と応えた。私が「ウライ漁の最盛期には、一日何匹位上がるのか。」と尋ねたら、「四~五百匹だ。」と答えた。そして帰りがけに「来年の最盛期にまた来てください。」と言われた。

サケについて調べてみた。まず孵化する水温の条件である。水温が摂氏八度では六十日位(六〇日×八度=四八〇度日)かかって孵化する。この孵るのに必要な日数は、チョウやメダカの孵化と同様の積算時間で、六度なら八十日位(八〇日×六度=四八〇度日)かかることになる。孵化しても卵嚢が大きくて動けないから、それが吸収できるまでは孵化した産卵場所で五十日程度は暮らすという。私の感覚からすると、せいぜい一週間位で卵嚢がなくなり泳ぎ出すと考えていたから、その長い時間に吃驚した。体長が五センチ位になると浮上してプランクトンを食べるようになる。私たちがテレビで見る稚魚の形となる。

日本海側の酒田から最上川を遡って帰ってくるサケは、稚魚が太平洋に出て回遊するようになる筈だが、太平洋に出るのは津軽海峡なのかそれとも宗谷海峡なのか、それとも両方なのかがとても気になった。また、日本海側でサケが遡上するのは日本海側ならどの県でも遡って来るのだろうか。日本海側のサケが遡上する川の分布を調べてみると、北海道はどの川でも遡上してくるが、日本海側では、福岡県の遠賀川までの記録がある。昔には長野県の千曲川、犀川、姫川の内陸奥地までも遡ってきたらしい。これらのサケは北から日本海の沿岸に沿って南下してきた筈である。

それでは稚魚は日本の沿岸部を離れて、どの道筋で太平洋に抜けるのだろうか。それを考えるには水温が関係するらしい。稚魚たちは八度の水温で生活しているが、その水温に限定されてその水温に乗って移動する。最近の日本沿岸の魚たちの種類が水温によって変わってきたことと同じである。サケの稚魚は八度の水温の海流に乗って北上し、津軽海峡でなく宗谷海峡を通ってオホーツク海に抜け、太平洋に出ていくのではないかと推測している。

稚魚は水温が五度になると北西太平洋に移動し越冬する。アリューシャン列島からベーリング海を経てアラスカまで移動し、北部太平洋を何年間に亘って回遊する。どうしてそんなことが分かるかというと、稚魚たちに標識をつけてその行動を確かめた結果からである。このようにサケは何年間かに亘って太平洋を回遊し、オホーツク海を経て宗谷海峡を通り孵化した川まで戻って来ていると考えられる。命の営みとその命を繋ぐ仕組みは生得的に組み込まれているのだろうが、そのことの大変さや奥深さを考えると感嘆せざるを得ない。

今回の東日本大震災で、名取市閖上(ゆりあげ)は津波で壊滅的な被害を受けた。それまでこの地域は、名取川の河口で道路が狭く商店や住宅が密集しており、海に出ると漁港があり魚市場があった。私は近くの魚屋でワタリガニを買ったものである。海沿いに伊達政宗が作ったといわれる貞山掘があり、近くに海浜プールがあって泳ぎにも行っていた。その貞山堀には初夏になるとハゼの稚魚が水中のコンクリートの壁に張りついている。上から水中の様子が見えるので、そこで赤虫や糸ミミズをつけてハゼの稚魚の傍に持っていくと食いついてくる。そんなことをしてハゼ釣りをした。海に入る名取川の入り口でタモ網で掬ってみたら数匹の魚の稚魚が捕れた。その稚魚を自宅の部屋の大きな水槽に入れて飼うことにした。その魚はだんだんと大きくなってきたがどんな種類の魚か分からないまま育てていた。大きさは十センチ程になっていた。ある時電気屋が電気器具の修理で部屋に入った時、その水槽の魚を見て「これはサケではないのか」と言い出した。そう言われてみると、そんな感じだった。名取川か阿武隈川(阿武隈川沿いの亘理では、はらこ飯が有名である)で産卵したサケの稚魚は、沿岸を離れるまでは汽水域で生活するが、そんな時に私がタモ網で偶然掬ってしまったのかもしれない。沿岸から離れて太平洋への旅の途中で、私に捕まってしまったのである。サケだと分かった時、自然の摂理で行動しようとした稚魚の運命を変えてしまった私の不明を恥じたものである。(サケ目 サケ科 サケ属 サケ)

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