ナマズ その2

動物編

ナマズについては色々な想い出がある。名古屋の東芝社宅に住んでいた時、父がコンクリートを固めて作った池に、捕ってきたナマズとフナを入れておいた。最初は何度も粉末の餌や糸ミミズを入れて面倒を見ていたが、どの子供も同じように、餌やりを忘れナマズとフナのことも忘れてしまった。池の水もだんだん緑色に変わって、中の様子は分からなくなってしまった。そのまま何か月も放置しておいた。その後魚捕りをして池に入れるべく、池の水を掻い出して水を入れ替えたら、フナは一匹もおらずただナマズだけが生き残っていた。どうもナマズがフナたちを食べてしまったらしい。ナマズは肉食で周りの魚を食べて生きていくから、稚魚から成魚になるまでに何匹位の魚を食べるのかと想像してしまった。

 メスの後を追いかけるオス

 ナマズを捕った想い出はいくつかあるが、その一つは名古屋の周りを流れる庄内川に、夕方に何本かの針にそれぞれミミズをつけて延縄(はえなわ)のように流しておき、翌朝に引き上げに行く釣りをしたことがあった。何度か試みたが偶然に一匹のナマズがかかっていたことがあった。

庄内川は今では汚れているが、瀬戸を源流とする矢田川が庄内川に合流する地点では、雨が降ると瀬戸物の材料の粘土の黄白色になる。その時以外は割りと綺麗な川で、小学校二年生頃までは褌(ふんどし)姿で川の中で泳いだものだった。その頃私は赤の六尺褌をつけて泳いでいた。水泳パンツと褌では、水泳パンツの方が高価でモダンだったように思う。高学年のお兄ちゃんたちは川に潜ってフナやハヤなどの魚を手掴みし、それを水泳パンツの中に入れて上がってくる。お兄ちゃんたちのこうした遊びは、私たち下級生にとって憧れの的だった。川で泳いでいる時にウンコがしたくなった時、褌をちょっと横にしてウンコすると、それがプカプカ浮きながら流れていったのを今でも鮮明に覚えている。こんなことが小学校低学年時代の私たちの遊びだった。

 ナマズの産卵風景

もう一つのナマズ捕りは、ナマズ釣りである。庄内川から名古屋の外側には新川、五条川があるが、その五条川でのナマズ釣りである。この釣りをした五条川の近くに織田家の居城だった清州城があり、映画で有名になった清須会議が行われた場所である。今でも覚えているのはそこはモンキアゲハを捕りそこなった場所でもあった。そのちょっと下流が釣り場所である。その場所近くに名鉄の津島線が走っている。私たちはそこでミミズを餌にしてナマズ釣りをした。数匹は釣れた思い出があるが大量に釣った経験はない。その頃は五条川では普通にナマズが釣れたのである。

 今でも覚えているのは夏の暑い頃、子どもたちが水泳パンツ姿で津島線の鉄橋の真ん中まで歩いて行き、その真ん中から五条川に足から飛び込む遊びをしていた。その当時の五条川も今程汚れていなかった。頻繁に飛び込む遊びをしていると、名鉄電車が走ってきて急ブレーキをかけて停まる。車掌が降りてくると子どもたちは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。車掌が諦めて電車に戻り走り出すと、また子どもたちは鉄橋の真ん中まで行き飛び込みを繰り返すのだった。私たちはこうした光景を見ながらナマズ釣りをした。

 私の電車にまつわる遊びでは、線路に耳をつけて電車が遠くから来るかどうかを確認する遊びや、五円玉を線路の上に置いておき、電車の通過した後に五円玉がペシャンコになったかどうかを楽しむ遊びをしたものである。今なら鉄橋の上から飛び込んだり、五円玉を線路において遊ぶ等すれば、業務妨害で訴えられる可能性がある。でも昔はそんなことをしながら子どもたちは遊んでいたのである。

 その五条川でのナマズ釣りに行った時に、弟が川に落ちて(はまって)しまったことがあった。小学校五年生頃だったのではないかと思う。中学生の私が必死になって引き上げた思い出がある。何十年も経って見ると、私は今でも川魚やトンボ等の昆虫に興味があるのに弟はこうしたことに興味がなく、映画を視るとか文学作品を読むことに時間を費やしている。あの時のことがトラウマになっているのだろうかと思うことがある。

 蟹江町内にある「なまずや」の看板のメニュー欄に、ナマズ料理と書いてあったので、知人の女性にナマズ料理を食べに行かないかと誘ったら、「私はナマズ料理は食べたくない。もし食べるならウナギを食べさせて欲しい。」と言われた。どちらが高価か分からないが、一緒にナマズ料理を食べて感想を聞きたいと思っていたのだが振られてしまった。とにかく一度ナマズ料理を食べに行きたいと考えているところである。

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