九月を過ぎるとアキアカネ等のアカトンボの仲間を見かけるようになる。アカトンボの寿命はどの位か分からないが、夏の季節には高い山で過ごし、秋になると里に下りて来ると言われている。確かに山形にいた時も夏の季節に山に入ると、アカトンボを沢山見かけた。そのアカトンボが秋になって里に下りて来た時、田んぼでは稲穂が垂れ下がっていて、そろそろ水を抜く季節になっている。
アキアカネ
蟹江周辺では稲穂が垂れるようなっても、田んぼに水を張っていることが多い。しかし九月下旬から十月になるとさすがに水を抜き始める。するとコンクリートの用水路の水も少なくなって用水路の底が見えるようになる。シラサギやアオサギが飛んできてその川底を歩きながら嘴で獲物を捕えている。稲穂が黄色く垂れて完熟するようになるとコンバインで収穫する。
先日も関西線永和駅の北側の田んぼでイトトンボやギンヤンマの写真を撮っていたら、農家の人が除草剤を撒いていた。そこで立ち話をした。その時の話では、この辺りの農家は個人が自分の田んぼで稲を育てているのは数軒だけで、共同組合に委託して田植えから刈取りもやって貰っているということだった。貸した土地で収穫した稲の売り上げの一部を手にしているとのことだった。そのためにその時期には一斉にコンバインで稲を収穫することになる。収穫してしまうと毎年冬に見られる田んぼの風景となり、ひこばえや根株だけが残っている裸の田んぼになる。
昔からその時期になるとアカトンボが飛んでいて、その田んぼにできた水溜り近くでオスとメスが連結して飛んでいたり、メス単独で打水産卵している光景を何度も見たものだった。私にとってはそうした産卵光景を見る度に、無駄な産卵行動で無駄打ちしてるなあと思い込んでいた。何故ならその水溜りは時間経過と共に干上がってしまうからである。ましてやコンクリート道路にできた水溜りで産卵しているトンボを見ると、その卵は全く無駄だと思わざるを得ない。そうした光景を見ると、ちゃんと川や沼の水面で打水産卵すれば良いのにと思っていた。そうすれば産卵した卵がヤゴになって、翌年の夏にアカトンボになり、山に移動できるのにと考えていたのである。
アキアカネの産卵
トンボの産卵方法を調べていた時に、ヤブヤンマのように土中産卵するトンボがいることが分かった。土中に産卵してその卵はどうヤゴになり、どう水中に入るのだろうか。当然羽化する筈だから、その前にはヤゴになっていなければならない。土中産卵するにしても水辺の近くの土中に産卵しているのだろうか。
私がこれまで考えている水中への産卵、ヤゴの生活、羽化の順序は、シオカラトンボやギンヤンマの例だった。ヤゴから羽化するのも一年間だと考えていたが、ギンヤンマ等は何年間もヤゴのまま生活するものもいるようなのである。こうした産卵から羽化までの順序は、基本的には同じだとしても、産卵場所やヤゴで過ごす年数等は一様でなく、私の考えていた産卵場所、ヤゴの期間や具体的な羽化までの順序は、シオカラトンボやギンヤンマだけに通用する偏った考えだったのである。
シオカラトンボ
そんなアカトンボの産卵の無駄打ちに長い間疑問をもっていたが、「トンボの不思議」(新井裕 どうぶつ社 二〇〇一年発行)にその疑問を解決する文章を見つけた。長くなるがそれを引用してみよう。「田んぼに住む一〇数種のトンボに共通しているのは、卵から成虫になるまでの期間が一年以内のものであるという点である。しかも、卵で越冬する種類が多い。毎年、春先に耕耘され、田植えで水が入ったかと思うと、収穫時には水が抜かれてしまうという不安定な環境が原因だからだろう。~中略~ 幸いアカトンボの仲間は、卵の状態で冬を越し、卵は乾燥に強いため、何とか田んぼでも暮らすことができるのだろう。しかし、アカトンボでも、水路で産卵するミヤマアカネは著しく減っているし、アキアカネもじわじわと減っている。アキアカネの卵がどの程度乾燥に耐えられるのか、簡単な実験をしたことがある。アキアカネのメスを捕まえて、しっぽの先を水に浸すと、すぐ産卵を始める。こうして得た卵を、採卵二時間後、三日後、二三日後に水中から取り出してシャーレに入れ、日当たりのよい窓辺に置いて乾燥させてみた。採卵二時間後に取り出したものは三日目に、三日後に取り出したものは五日目に、全て干からびて死んでしまった。それに対し、採卵二三日後に取り出したものは、干からびず、水中に戻したところ孵化したものが多かった。孵化した卵と孵化しなかった卵を比較したところ、ヤゴの目になるところが黒く色づく「眼点期」まで発生が進んだものは、孵化率が高いことが分かった。このことから産卵後すぐに干上がって乾燥してしまう場所だと、卵も干からびてしまうが、産卵場所が湿っていて、眼点が形成されるまで発生が進んだ卵は、乾燥に耐性を持つようになると考えられる。アキアカネをはじめ田んぼに住むほとんどのトンボは、眼点が形成されて乾燥に耐性ができて冬を迎えているのである。田んぼに生息するアカトンボは六種類いるが、そのうちアキアカネ、ナツアカネ、ノシメトンボの三種類が多く、いずれも卵で冬を越して初夏に羽化するという共通の生活史を持っている。その中でもとくに繁栄していたのがアキアカネであった。」と述べられている。
ナツアカネ
コノシメトンボ
これらのことが事実だとすると、私が考えていたアカトンボの産卵の無駄打ちという考えは誤っていたことになる。それよりは稲作と深い関わりを持った、生態的に適応的な行動をとっていることになる。また卵のまま土壌で冬を過ごすというのも、田んぼの土壌と関連がある。というのは田んぼの土壌は粘土質で水を地下に通さない。そのことは土壌そのものに保水作用があることを示している。アカトンボが水溜りで産卵して、その表面の水が枯れても、粘土質の土壌は湿気を帯びているので、その結果アカトンボの卵は「眼点期」を無事に過ごし、次の春の田植え時期に田んぼに水が入れられると、そこでヤゴに変化するのだろう。そう考えるとアカトンボの一生は一年でなければならない。翌年の春にヤゴになって翌々年までヤゴのままだとしたら、そのヤゴは秋の稲刈りの時にすべて死滅してしまうだろう。アカトンボの産卵とその成虫になって子孫を残す営みは、予想以上に田んぼとの関わりが深いことをこの事実から知ることができる。本当に自然と動物の関わりは、上手くできているなあと感心するばかりである。
コメント