ヒヨドリ

天童でも蟹江でもヒヨドリはそこかしこで見かける鳥である。春になって桜の花が咲きだすとその花の蜜を吸いに来る。メジロも時々見かけるが、ヒヨドリの方が圧倒的に多い。

ヒヨドリ

 鳥に興味を持った頃はヒヨドリとムクドリの区別もつかなかった。でもだんだん彼らの違いが分かってきた。まずは泣き声である。ヒヨドリはピーピーと鳴くがムクドリはギャーギャー鳴く。また飛び方がヒヨドリは上下に波打つように飛ぶが、ムクドリは一直線に飛ぶ。ヒヨドリは群れることもあるが一羽の時も多いのに、ムクドリは群れで行動する。今では遠くで飛んでいるこれらの鳥を見ると、一瞬でどちらの鳥か分かるようになった。

 昔ヒヨドリは山沿いに住んでいたが、市街地に降りてきて生活するようになったと言われている。餌があるからだろう。山形では山に入るとスギ林等でヒヨドリが鳴いたり梢を移動しているのを見かけていた。今でも両方の地域に住んでいるようだ。

 ヒヨドリといえば、「ヒヨドリ越えの逆落とし」という言葉をすぐ思い出す。源平の一の谷の合戦でのことである。倶利伽羅(くりから)峠で木曽義仲に大敗した平氏は九州まで退いたが、その後勢力を持ち直して、福原(神戸)近くまで進出してきた。後白河法皇は木曽義仲の横暴さや勢力衰退を見限って源頼朝に頼ろうとした。そのために後白河法皇は義仲に幽閉されてしまう。その平氏追討を任されたのが源範頼(五万六千)義経(一万)だった。義経は搦手(からめて)から一の谷に攻撃をしかける。その場所が「ヒヨドリ越え」だった。断崖絶壁の場所だが、最初に馬二頭を落としてみたが一頭は足を挫き、もう一頭は無事に駆け下った。そこで注意して降りれば大丈夫と判断して精鋭の七〇騎が駆け下ったと言われている。一の谷に出る途中の険しい岩場では馬を気遣って背負って降りた武士もいたという。平家物語の内容なので白髪三千丈的な可能性があり本当のところは分からないが、それにしても「ヒヨドリ越え」はイノシシ、シカ、ウサギ等の野生動物しか移動できないような険阻な場所である。この辺りの場所をヒヨドリが行き来していたとすれば、当時は山にヒヨドリが多かったのだと考えられる。

 ヒヨドリが餌を採る

 次いでにウマについても記しておきたい。「人がウマを背負えるか」という問題である。私たちのウマのイメージは競馬用のサラブレット(一六〇~一七〇センチ)の大きな馬を想像する。日本にいる在来馬の体高は一二〇センチ前後で、ずんぐりした体型である(木曽馬や御崎馬など)。相馬野馬追の騎馬戦で使用されているウマは、当時の在来馬ではなく西洋馬の血統を引くものだろう。日本の歴史の中で使用されてきたウマは在来馬で大きな馬でないことから、背負うことも可能だったのではないかと思われる。

 北方謙三の「史記」を読んでいたら、前漢の武帝(前一四一~八七年)が蒙古馬とは異なる大形のヨーロッパのウマを取り寄せて増やそうとした記述が出てきた。その漢の時代の馬も日本の在来馬と同じような大きさだったのではなかろうか。

 小型の馬はポニーと呼ばれ色々な行事で子どもを乗せたりしている。体高はほぼ八〇センチでやはり小さい馬である。私は東日本大震災前に国道六号線を車で走っていた時に脇を小さいウマを曳いて歩いている人を見たことがある。ポニーよりも断然小さくイヌのシェパード程の大きさのウマだった。見た時にとても驚いた。そして何度もその馬を見かけた。北アメリカで出土した馬の祖先の化石は小さいものだったと言われている。進化の過程と人為選択による品種改良で今のように大きくなったのではないかと思われる。

  ヒヨドリの真冬の水浴び

 仙台やいわきの知人宅では、冬期になると庭の木の枝にミカンを刺したり餌台に置いたりする。メジロが飛んできてミカンを啄んでいくことがある。そこにヒヨドリが飛んで来てメジロたちを追い出し独占してしまう様子も見かける。その時ヒヨドリは一羽である。他のヒヨドリが来ると譲る場合もあるし追い出すこともある。とに角きかない鳥だとつくづく思う。ミカンを提供する側はメジロが来ることを期待して、枝に刺したり置いたりしているのに、そんなことはお構いなしにその場のミカンを独占してしまう。こうしたことは人間さまの都合で、冬場の餌の争奪戦は彼ら鳥たちにとって死活問題だから、私たちの価値観で良いとか悪いとか言えないのは当然だろう。

 ヒヨドリは食べ物として虫、、木の実の他に花の蜜等を吸う。蟹江周辺では柿や川沿いにセンダンが多く、秋口になって実をつけるとピーピーとヒヨドリが鳴きながらその実を食べに来る。二月下旬~三月初旬になってそれらの実がなくなると今度は庭のキンカンの実を食べに来る。夏ミカンやキンカンを植えている家が多くその実が熟してくる時期に当たる。偶然その庭の前を通りかかった時、ビワの花に紙袋を被せていた主人に「キンカンは採らないのか。」と尋ねたら、「放っておく。」と答えた。四月になると桜の花の蜜を吸いに来る。ヒヨドリの餌は季節ごとに変化していくようである。

「野鳥の図鑑 陸の鳥①」(中村登流 保育社)によると、「樹上性。木の隣へよくとまり、群がってさわぐので、よく目立つ。イイギリ、センダンなど小粒の果実に集まり、ひらひら飛んではくわえる。残り柿にもよくやってくる。低地、低山帯の林。いろいろな林にいる。人家周辺の樹木、庭、公園、果樹園、畑地周辺など、木の多い村落や都市に多い。ツバキの花へよく来る。日本全国に繁殖している。~中略~ 留鳥、北方では夏鳥。春と秋、特に秋の渡りは日中に、中・大群で行くので目立って見える。」と記されている。

 この記述の中で北方では夏鳥と書かれている。夏には本州からヒヨドリが北海道に、秋になると逆に本州に渡っていく。そのヒヨドリの渡りの難所が津軽海峡である。

 ヒヨドリの群れが飛ぶ

 NHKの番組「ダーウィンがきた」のタイトル「大追跡! ヒヨドリ津軽海峡越え」はこうしたことを示した番組だった。私はこれを録画してゼミや授業で学生たちに、その渡りの大変さを伝えようと視聴させたものである。取材班による記述があるので少し長いが紹介しよう。「津軽海峡に現れた巨大な黒龍。その正体は、なんと二千羽以上のヒヨドリの大群です。ヒヨドリといえば、家の軒先でも見られる身近な野鳥。そんな普通の鳥が、秋になると北海道の最南端の白神岬に大群で押し寄せます。その目的は、暖かい本州で越冬すること。冬の北海道では食べ物を十分得られないため、食べ物の豊富な本州へ移動するのです。次々と大群で津軽海峡の大海原を出発するヒヨドリたち。その先には、様々な試練が待ち構えていました。まず行く手を阻むのは、津軽海峡に住み着いている天敵のハヤブサです。得意の急降下攻撃で、ヒヨドリの群れに襲いかかります。一方、ヒヨドリたちにもある秘策が。なんと海面スレスレを飛んで、ハヤブサの攻撃を巧みにかわします。上空から襲いくるハヤブサが海面にぶつかるのを恐れて、急降下のスピードを緩めてしまうことをヒヨドリたちは知っているのです。さらに、ヒヨドリたちを待ち構える次の関門があります。それは津軽海峡の荒波。高さ三メートルを超える波が、海面近くを飛ぶヒヨドリの群れに迫ります。津軽海峡越えは、まさに命がけの旅なのです。」

 このハヤブサの攻撃を避ける方法は善太川のケリの群れでも同様で、上空にいたハヤブサを避けるためか川の水面ぎりぎりまで降りてきたことを思い出す。  野生動物が生きていくことは常に死と隣り合わせであることを実感してしまった。それに反して我々人間いや日本人の在り方はこんなことで良いのか、こんな楽ちんな生き方をしていて良いのかと考え込んでしまった。(スズメ目 ヒヨドリ科 ヒヨドリ属 ヒヨドリ

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