「教育原理」の授業で学生に動物の絵を描かせてきた。その中に昆虫のトンボとアリの絵も含まれていた。その授業はいつもよく見知っている動物だと思っていても、描こうとするとその動物の特徴が分からずに描けないことを確認させるための授業だった。学生はトンボでもアリでも自分では身近でよく知っている積もりだが、実際に描かせると描けない。上手く描ける学生も中にはいるが、それも今の時代だからか漫画チックな絵が多い。漫画チックでもそれで良いことにして、体が三つに分かれて描かれているか、足や翅が胸から出ているかを調べてみると、トンボでもアリでも体を三つに分けて描くことができずに、二つになってしまっているものも多い。しかも翅や足の出る場所が胸でもなく腹から出ているので、見た目にも昆虫とは見えない代物である。学生本人にトンボらしいかアリらしいかと尋ねてみると、首をかしげてしまう。自分で描きながら、トンボとかアリとは見えないようなのである。特にアリの絵が腹から足が出ていると、まるで芋虫みたいである。
その後アリとトンボは三つの部分、頭、胸、腹に分かれており、足や翅は胸から出ていることを説明する。このような話をしながらも、私の中に腑に落ちないことがある。
シオカラトンボの体
モンシロチョウも昆虫だから体が三つの部分に分かれている。これはチョウになった時にそうなっているだけで、キャベツ等に産み付けられた卵が孵った時には体が一つの細長い芋虫である。足も三対の六本ではない。アゲハチョウ等の芋虫は一つの体だが、胸脚三対、腹脚四対、尾脚一対の計八対の一六本の脚があるという。成虫が三対六本だから余分な脚があることになる。しかし胸脚が本来の脚で、その他は吸盤などになっていて仮の脚と考えれば六本脚であるともいえる。カブトムシの幼虫は前脚部の三対の六本脚である。これは分かりやすい。しかしイエバエになると脚はなく、全身を波立たせて移動する。
モンシロチョウの体
余談だが天童のアパートに住んでいた時に、夏にポリエチレンのごみ袋を放置しておくと、どこからかショウジョウバエやイエバエが飛んできて産卵し、その幼虫が袋の中やはたまた台所の床をはいずり回っていた。確かに体を波立たせていたように思う。そして蛹になりその抜け殻が台所のそこかしこにあったのを思い出す。このように同じ芋虫やウジでも脚の状況は違っている。
こうしたモンシロチョウやアゲハチョウは完全変態すると習った。蛹になって冬越しをする。なぜ蛹になるのかは環境への適応が考えられる。冬などの厳しい環境の変化に対応したり、餌となる食べ物が沢山ある時期まで待っていたり、繁殖する時期がそれらの時期に重なるように調節したりする利点が考えられる。しかし蛹になっている時は無防備だから、捕食者がいれば忽ち食べられてしまう。長所・短所がありながら生き延びてきた昆虫の戦略なのだろう。
キアゲハの幼虫
青虫や芋虫のような体つきからチョウの姿になるように変化するのが蛹である。その蛹の中で脚やら翅なりが突然できるのだろうか。上述の脚の部分で言えば、アゲハチョウでは芋虫の時期に成虫の三対の脚になる六本の萌芽が既に見られるという。こうした脚や翅は少しずつ出来上がってくる。
チョウの蛹
「動物の言い分 人間の言い分」(日高敏隆 角川ONEテーマ二一)には「チョウの幼虫はだれでも知っているとおりいもむしや青虫である。いもむしや青虫をいくら見ても、もちろん翅など生えていない。ところがである。こういういもむしや青虫を解剖したり、うすく切って調べたりしてみると、幼虫には翅が生えていることがわかる。ただしその翅は、体の外に生えているのではなく、皮膚の内側に生えているのだ。サナギになったら翅が生える場所の内側に体の中に向かってもう翅が生えている。けれど皮膚がそれをおおっているので、外からはまったく見えない。とにかくこういう訳で、大きく育った幼虫には、体の内側にもうちゃんと翅ができている。ではその翅はいつできはじめたのか? 卵からかえったチョウの幼虫は、ふつう四回脱皮をして大きくなる。かえったばかりを一齢幼虫、それを脱皮したものを二齢幼虫、と呼び、四回目の脱皮を終えた五齢幼虫がいよいよサナギ脱皮をしてサナギになり、それが脱皮してチョウになる、というわけだ。~中略~ そこで、かえったばかりの一齢幼虫を調べてみると、驚くなかれ、翅はもうちゃんと存在しているのだ! ただし、ほんの数個の細胞のみからなる『原基』とか『成虫芽』として。これが幼虫期を通じてどんどん細胞数を増し、翅の形に近づいていくのだ。つまりいずれにせよ、卵からかえったばかりの一齢幼虫にも、ちゃんと翅の『成虫芽』は生えているのだ」と記されている。
そうだとすると、翅ばかりでなく一齢幼虫の時に、既に脚の「成虫芽」ができている可能性がある。芋虫の胸脚と成虫の脚は同じ「成虫芽」なのかどうかは分からない。芋虫時代に胸脚を傷つけてみて、成虫の脚が一本欠けているなどすればはっきりするかもしれない。
完全変態で五齢幼虫がサナギになると、そのサナギの中で幼虫がチョウになるための変化が起こる。日高の実験結果が正しいとすると、翅になる部分、脚になる部分は決まった場所(位置関係)にある筈だから、体全体のバランスを取りながら組織変化することになる。これら組織の発生の順序が生得的なプログラムに組み込まれているのだろう。
また日高は上述の本で「変身のプロセスがわかってきてみると、変身=変態とはかなりふしぎな現象である。カエルも変態する。子どもすなわちオタマジャクシは、泳ぎながら四本の肢をつくっていく。はじめ後肢が生え、次いで前肢が出る。えらはなくなって肺ができる。それと並行して、尾がなくなっていく。尾の細胞は死をプログラムされており、一定の時期がくると、細胞は自己崩壊していく。それはかつて自殺袋と呼ばれた自己消化酵素の袋が細胞の中にでき、ある時期がくると、それが爆発して細胞が自ら崩壊してしまうのである。それでその成分は栄養として血液で運ばれ、生えはじめた肢やできはじめた肺をつくるのに使われる。けれど、尾の細胞の『自殺』も勝手気ままにおこるのではない。尾のへりのほうの細胞から順におこっていき、最後に尾の細胞が自殺する。さもなくば、尾はポロリと落ちてしまう。細胞たちの自殺はプログラム化されているのである。いわゆるプログラムされた死だ。こういう死が、近ごろよく知られる『アポトーシス』である。変態はプログラムされた死と隣り合った誕生なのである。」とも述べている。
芋虫からモンシロチョウなどの成虫になる完全変態の中に、翅や脚の連続性はあるとしても、その姿形は全く異なるということになる。その生得的に組み込まれたプログラムによって、どのような細胞が死んで吸収されて、どのような細胞が形作られていくかの順序性やその相互作用等は、今のところ完全に解明できないブラックボックスなのだろう。昆虫は三つの体の部分からできているというのは、成虫になった時の共通性なのである。
ところで「アポトーシス」に関していえば、不死の願いを持った中国皇帝の話を思い出す。池田清彦によれば、人間が受精卵から出産してくる過程で、手足の指がヒレのようになっているのを、指の間の細胞が死ぬことによって五本指が出来上がるのだと言っていたように思う。私たちの体はある細胞の死によって作られているのであり、細胞の死が生得的にプログラムされて人間が作られていることから言えば、細胞全体である人間もそのプログラムから避けられない宿命にあるように思う。細胞分裂の回数が限定されているというテロメア仮説も、こうした死を避けることができないことの説明仮説と言えよう。
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