イモリは沼などで見かけたことはあるが、それほど多くはない。小学生時代には爬虫類のヤモリと両生類のイモリの違いさえ知らなかった。小学生の頃、夏になると社宅から名古屋市営児玉プールに友達と毎日泳ぎに行った。その途中の屋敷の門にヤモリが何匹かへばりついていた。よくそんなに垂直の門に吸盤でへばりつけるなと感心すると同時に何か薄気味悪い生き物という感じだった。
イモリ
そんなヤモリと水中に生活するイモリが、どこか体形が似ていて区別ができなかった。テレビでは両生類の仲間のサンショウウオが映されることがある。オオサンショウウオは見たことはないが、サンショウウオは仙台の泉ヶ岳に流れている渓流で見かけたことがあるし、東北の山に入って川の傍に行くと時々見かけることがある。
山形の高瀬から紅花トンネルに抜ける県道二七六号線沿いにハス田がある。高度がやや高く取水している谷川の水温が低いせいか、余り大きなハスにならないままに秋に入ってしまう。春になると沢山のオタマジャクシが水中で泳いでいる。サギ等の鳥が飛んで来て啄んでいる様子はない。私はこの場所にスイレンやオモダカの花が植わっているので、イトトンボの写真と共に撮りに出かけている。何度も出かけるうちにあることに気がついた。水中にオタマジャクシが沢山いたのに日にちの経過に伴って少なくなってきたのだ。カエルになって陸上に上がったのかもしれないと思いながら、水中を見るとオタマジャクシよりは大きくゆったりと泳いでいるものがいる。よく見るとイモリだった。何年も前からこの場所に写真を撮りに来ているがイモリがいたという記憶はない。一匹だけでなく何匹もいるからハス田全体では相当な数がいるのではないかと思う。どこから入ってきたのだろう。オタマジャクシの多くがイモリたちの餌になったのではないかと思ういうになった。
イモリと関連して大学院生の頃を思い出す。イモリそのものではないが、指導教官の細谷純さんが宮城県の北部のある沼で、水面上にかかる木の枝の泡でできたモリアオガエルの産卵塊を知人から貰って来た。その様子を教材研究のために研究室で観察していた。ある時期になると泡の中で卵から孵った小さなオタマジャクシが泡と共に蠢(うごめ)きながらフラスコの中の水中に落ちていく。研究室に置いてあるその泡の塊は、当然のことながら生臭い匂いがしていて、何故かその臭いの印象が今でも強く残っている。
細谷さんの話では、その沼の水中に落ちるオタマジャクシの下にイモリが沢山待っていて、そのオタマジャクシが落ちてくると即座に捉えて食べてしまうそうである。その話を聞いて、同じ両生類同士でも生存競争は厳しく凄いものだなあと感じたものである。
ヤモリと言えばカナヘビと同様に危険を感じると「自切」をして尻尾を切り離す。その尻尾が交感神経の働きで勝手に動いているうちに、本体であるヤモリやカナヘビは逃げるという戦略を採っている。その自切後の本体の体は再生してくるが、尾骨までは再生しない。つまり完全には元の状態にならないのである。この尻尾の自切を何回も繰り返せるかというとそうでもなく一回限りの場合が殆どらしい。
ヤモリ
それに較べるとイモリは自切をしないが、再生能力が高く何度でも再生できる。イモリは足が切れると、その断面の細胞が再生芽という細胞に変化し足の再生が起こる。iPS細胞と同じで足になるように指令された細胞なのだろう。このイモリの再生能力は高く、ある実験では、目のレンズ部分を取り除くと一八回もそれが再生したという。その位イモリの再生能力は高いということだろう。
再生というとテロメア仮説を思い出す。命の回数券とも言われ、体細胞の再生回数が決まっているという仮説である。これは二〇〇九年にノーベル医学生理学賞を貰ったブラックバーンたちが唱えたもので、その回数券は細胞分裂が起こるたびに減っていく。それに対してテロメラーゼという酵素がそのテロメアを部分的に再建するものの、結局はヘイフリック限界を超えて短くなると細胞は死滅する。細胞の老化と関係している。
細胞の一部にはシャーレで絶えることなく増殖しているものもあるし、ガン細胞のように勝手に増殖して我々の命を奪ってしまうものもある。こうしたテロメア仮説に入らない事例に対して、テロメラーゼという酵素の存在が認められたという。
大部分の体細胞はテロメアという回数券がなくなると死滅するが、その全体である私たちの体はどの位生きられるのだろう。高橋金三郎さんが人間の最大可能な寿命は一二〇歳位だと言っていた。その根拠は聞いたことはなかったが、テロメア仮説からも一二〇歳位が妥当する年齢と言われている。
池田清彦の本を読んでいた時、人間が死ぬのは何故かという問いに、受精卵が分割しながら人間の体を作っていく時、例えば胎児の指は最初は指が水かきのようにくっついている。しかし指の間のヒレ部分が死滅することで五本指が作られていく。人間の体はある体細胞を死滅させることで人間になるようにできている。だから体細胞は役割を終えると死滅するように仕組まれている。だから死から逃れられないのだという意見だった。
こんなことを考えると、私たちの生が死に向かって進んでいくという例外なき命題から、私自身も免れないだろうなと考えてしまった。それが早いか遅いかは別として。(有尾目 イモリ科 イモリ属 アカハライモリ)
コメント