イトヨ
イトヨはトゲウオの仲間で、私にとっては忘れられない魚である。というのは動物行動学のニコ・ティンバーゲンの実験にイトヨが使われ、繁殖期になったイトヨのオスが、縄張りに入ってくる他のオスを追い払おうとする行動について、実験的に確かめようとしていたからである。彼は、コンラート・ローレンツ、カール・フォン・フリッシュと共に一九七三年にノーベル生理学賞を受けている。その実験というのは、自分の縄張りに入ってきた他のオスのどんな視覚的な刺激に対して、攻撃的な反応をするかというものである。同じ魚としての形なのか、それとも婚姻色である赤の色なのかということだった。その視覚的な刺激の形や色を検討した結果、形よりは赤色に反応することが確かめられた。繁殖期になった他のオスの婚姻色は、他のオスにとって攻撃の対象になる反面、メスにとっては誘因刺激になっている。オスが赤い腹を見せると、それに引き寄せられてメスが近づいてくる。そのメスの腹は膨らんでいることが、次のオスの行動を引き起こす誘因となる。
イトヨのオスは、藻などを使って砂地に穴を掘り腎臓から出た粘液を使って巣を作る。それに腹が大きくなったメスをジグザグダンスで誘い込んで巣の中に入れ、そこでじっとしているメスの脇に入り込んで放精する。そしてメスが出ていくと、その卵が孵るまでオスが胸ビレで水流を作って巣に酸素を送る。こうした一連のオスとメスの行動の連鎖があって産卵と孵化行動が完結するようになっている。
ところで天童市の高木と東根市羽入周辺の川には、県の天然記念物に指定されているトゲウオの仲間のイバラトミヨが生息している。近年はその数が減って絶滅するのではないかと心配されている。このイバラトミヨは、イトヨと同じトゲウオの仲間だが、砂地に水草や藻を使って巣を作るのではなく、水中の水草やヨシなどの茎の辺りに作るところがイトヨとは違っている。その場所が勤務していた短大の近くだったので、このイバラトミヨを飼ってみたいと思っていた。しかし水道水では飼うことが難しく、やや低温の冷水が恒常的に必要であることと、山形県の天然記念物に指定されていることから、無断で採取すると大変な事態になることを恐れて飼うことを断念した経緯がある。
イトヨやイバラトミヨは、地下水が湧き出る湧水池や割と水温の低い川に住んでいる。それはこれらの仲間が氷河期の時代に生きていた証と言われている。その点で古い時代から生き延びてきた魚なのだろう。そんなことからイトヨは陸生では湧水池や山沿いの谷川が流れる地点にしか生きていない。また福島県では会津の一部に生息していると聞いたことがあるが、きっと湧水池ではなかろうかと推測している。
こうした陸生のイトヨではなく降海性のイトヨもいる。新潟県では、荒川、阿賀野川、信濃川などの支流域にイトヨが上って来るので、それを捕えて食料にしている地域があると聞いたことがあった。いわき市の夏井川の支流でイトヨが見つかったというニュースも聞いたことがある。多分降海性のイトヨが遡上してきたものと思われる。そう考えると陸生のイトヨは、内陸に閉じ込められたヤマメと木曽川や最上川などで捕えられる海に出て大きくなるサクラマスのように同じ種でありながら、住み場所や習性が異なっただけの違いかもしれない。そう考えると降海性のイトヨは陸生のイトヨよりは、きっと大型ではないかと推測している。
ニコ・ティンバーゲンのイトヨの実験を学んでから数年経って、仙台のサンフィッシュというペットショップで、春先にイトヨが販売されているのに出会った。それまではイトヨが販売されているのに出会ったことはないしその後も一度もない。どんな経緯で販売されるようになったのか分からないが、千載一遇のチャンスだと思って、そのイトヨを何匹か購入した。多分一匹三百五十円位だったのではないかと思う。それを自宅にあった大型水槽に砂を入れ藻や水草を入れて、水の循環装置をつけて飼育することにした。餌をどう調達するかでは、その当時サンフィッシュで糸ミミズを販売していた。私はそれを買ってきて少しずつ水槽に入れてやると、イトヨはそれを食べていた。そんな様子を毎日何時間も観察したものである。
すると既にオスの方も婚姻色になっており,メスの腹も大きくなっていたからか、オスが巣造りを始めた。巣を造りやすそうな藻を入れてやったからそれを使って尻を擦りつけながら巣を作った。しかし幅も長さも大きくはなく、こんな程度で良いのかと思う程だった。そんなオスが巣造りをしている時、水面近くで腹が大きくなったメスが待機していた。しかし巣造りをしているオスはそのメスを追っ払って、すぐにはジグザクダンスで誘うことをしなかった。どうもオスとメス共に相性があるのではないかという印象を受けた。必ずオスがメスを誘うと思い込んでいたが、逆にメスがオスを誘う場合もあるのではないかとも思うようになった。
そうこうするうちに、オスがメスを誘って巣に入れることに成功したが、メスは気に入らなかったのかすぐに巣から出ていってしまった。オスはその後も何度も巣を修復して、巣造りを繰り返した。そうしてメスの方に近づき誘うと今度はメスは巣の中に入り、顔を巣の端から出ている状態でそのままじっと動かなくなった。するとオスはその巣の中に入って、メスと並んだ状態になってじっとしていたが、それからメスが動き出して巣から出て行った。その時点でメスの腹はしぼんでいた。
その時巣の中で産卵が行われオスが放精したのだろう。オスは巣から離れずにいるようになった。また別のメスが入ってきて同様な行動を示した。私は、産卵が無事完了したのだなと思った。その後巣の穴の前で胸ビレを動かしながら水流を送るようになった。それから一週間から十日ほどで稚魚が誕生した。私は嬉しくなって指導教官の細谷純さんにも報告した。
ところがその稚魚が大きくなる過程で、五月末頃から水温が上がってきて様子が変わってきた。というのは稚魚の皮膚に白い斑点がつき出したのである。恐らくカビではないかと思ったので、私は冷蔵庫から氷を取り出して水槽の中に入れて水温を下げようとしたが、結局稚魚たちは体中にカビが生えて死んでしまった。
とても残念なのは、水槽の水温をコントロールできる装置があれば良かったのにと思ったことである。水温を上げることは難しくないが、下げるための装置はそう簡単ではないだろう。
イワナやヤマメの養殖をしている場所は、山形県の例を見ると山の谷川が常に流れ込んでいる場所を仕切って養殖している。街中では井戸水を使うことで私の失敗は避けることが出来るかも知れない。実際に天童でイバラトミヨを育てている人は、井戸水を使って育てていると聞いたことがある。
ティンバーゲンの本から学んだことと、実際にイトヨを育てた経験から学んだことの食い違いがイトヨへの私の思いを深めることに繋がったとつくづく思う。
ところで蟹江に戻って、岐阜県海津市南濃町には津屋川沿いの湧水地にトゲウオの仲間のハリヨが生息していることを知った。町内のハリヨ公園に写真を何回か撮りに行ったが、水中にいるハリヨはうまく撮れなかった。トゲウオにはイトヨ属とトミヨ属があり、イトヨとハリヨはイトヨ属、トミヨとイバラトミヨはトミヨ属になっている。「トゲウオのいる川」(森誠一著 中公新書)には、ハリヨやイトヨの南限は北緯三五度となっていること、トゲウオの仲間が氷河期から続く寒冷地で生存してきたことなどが示されている。
ハリヨ
ハリヨは岐阜県や滋賀県の琵琶湖付近に生息している。トゲウオ生息域の南限に位置し、夏期の水温が二〇度以上にならない湧水池があるので、この地方にだけ生存しているらしい。またトミヨについては「福井県以北の日本海側、北陸地方にはトミヨとイバラトミヨが生息している。イバラトミヨは新潟県以北に、トミヨは福井県以北の湧水域を中心に分布している。しかし特にトミヨは、近年福井県と石川県において激減している。」と記されている。また「東北地方には日本海側を中心にイバラトミヨが分布している。山形県の最上川水系の分布域は下流から大きく、庄内地方、新庄市周辺、天童市周辺の三地区に分けることができる。このうち天童市付近のイバラトミヨは、トゲウオ学の草分け池田嘉平さんの研究によって、他の二地区と形態的に異なっていることが指摘され、特殊型と言われている。」と記されている。
天童市のイバラトミヨの生息数調査は毎年行われているが、だんだんとその数が減っていることが新聞やテレビなどで放映されていたのを思い出す。周りの自然環境が汚染されてきているからではないかと心配しているところである。
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