ヒガンバナの葉と出てきた花茎
ヒガンバナは、寺の境内や墓地の周りに咲いているのを昔からよく見ていた。秋の彼岸頃に見ていたから、子供心に好きになれない花だった。花のそのものが知っているバラとかサクラとかのイメージからはとんでもなく離れており、形だけでなく赤い色が血の色を連想させるので近寄りがたい花だった。私にとっては奇怪でグロテスクな花という感じという印象だった。
東北に住むようになって、春の彼岸には木花を添える風習があることを知った。木を削って木の先に削った木屑を丸め色づけして、それを供えるのである。赤や黄色の色と形から、菊などをイメージして作られているのではなかろうか。彼岸は3月20日前後で、東北は周りはまだ雪があったり肌寒いので供える花は咲いていない。仙台に来て初めてこの木花を見たときは、随分グロテスクに見えたものである。
ヒガンバナといえば、少年期の幽霊とかヒトダマとかのイメージと結びついていた。世の中でも霊とかヒトダマとかの思想がまだまだ蔓延しているので、知らない間にこうした思想を私自身も学んでいたのだろう。加えてこの思想は身の周りのいくつかの事実とくっつくことで、更にこの思想を強めていく作用もあると考えられる。
私自身は小学校の時にヒトダマと思われるものを見た経験がある。小学校5年生の夏休みの最終日で、翌日から2学期が始まる日の夕方、友達とそろばん塾の帰りの7時頃に自転車で帰る途中、畑で青白くボウーッと光るものがフワフワ空中を飛んでいるのを見たのである。近くに松の木が一本生えていたのを今でも鮮明に覚えている。私が見た瞬間に一緒だった友達も見たらしく、二人とも怖すぎて「ヒトダマだ」と言うことはできずに、それまでの自転車のこぎ方よりは必死で速くこいで、自転車を玄関先にバーンと投げ捨てて家に飛び込んだ。今ならきっとそのヒトダマを追いかけると思うが、ただヒトダマとか幽霊だと考えていたから、怖いとしか考えていなかった。今から考えると残念だったなと考えている。
ヒガンバナは、私にとってその幽霊とかヒトダマ思想と結びついていたので気持ちが悪いとしか感じなかったのである。ところが東北に来ると、色々な場所にヒガンバナを見ることが多い。田圃の畦とか土手とかに生えている。それも1本だけではなく、少なくても数本以上咲いている。墓地以外でもこうしたヒガンバナを見るようになって、小さい時の感じがなくなってきた。またヒガンバナが三倍体で種ができずに、球根で増えること、中国から渡ってきた帰化植物だということを知るようになって、なぜか親しみを感じるようになってきた。あの赤い花も何となく優雅な花に見えるようになったのである。
ヒガンバナは球根で増えるから、少しずつ群れをなして徐々に拡大していく。そしてヒガンバナ科の植物は先に花を咲かせるのである。この球根はキクイモと同じように救荒植物の役割を果たしていた。球根の灰汁抜きをしてデンプンが採れるのだが、リコリンというアルカロイドが含まれるため、それを取り除くことを上手くできずに、救荒植物でありながら死者を出したこともあったようである。
ラジオを聴いていたら、畑でモグラが害を与えて困ると相談者が話したら、畑の周りにヒガンバナを植えるとモグラが敬遠して被害を防げるとアドバイスしていた。本当にそうなのかは分からないが、毒草なのである役割は果たしているのだろうと思う。
数年前、若松観音に行く少し手前の農家の裏の土手に、ヒガンバナが一面に咲いていた。テレビでこうした場面を見たことがあるが、実際にこうした場面を見たのは初めてであった。なかなか壮観で私はそれを写真に撮ったのである。
またヒガンバナは花が先に咲くが、少し経つと遠くから見ると何もなくなってしまう。しかしそのあとに葉が出てきて光合成をして翌年のためのエネルギーを蓄える。葉を先にして栄養を蓄えて花を咲かせれば良さそうなのに、そうではないのである。ソメイヨシノ、イヌサフランなども花を先に咲かせる植物であるが、環境などへの適応という面でより良い効果があるのだろうか。とても不思議である。
最近ヒガンバナの赤い色だけでなく、花屋でピンクのヒガンバナが売られている。品種改良によるものか、遺伝子操作によるものであろう。まだ見たことはないが、白いヒガンバナもあるのではないかと推測している。あの花の形を見ると、なかなか優雅に見えてくるから不思議である。私の中にあったヒトダマとか幽霊というイメージと対連合していたヒガンバナが、その生き様や種ができないながら増えていく戦略などを知るようになって、違って見えるようになってきた。ヒガンバナに対する偏見が改まったのだと思う。
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