アオスジアゲハ

アオスジアゲハはヒマラヤ、ブータン、華南や台湾に連なる照葉樹林帯に特有のチョウだと思い込んでいた。その照葉樹林帯は日本では西日本から東海地方を経て関東地方までの区域までで、東北地方までには分布していない筈である。照葉樹林とは葉がテカテカ光るドングリの実を作るカシや、小さい実をつけるクスノキなどを含む仲間のことである。東北地方は同じ仲間のドングリができるものの、秋に落葉するミズナラやコナラなどで違いがある。アオスジアゲハの幼虫の食草はクスノキなので、その分布域にしかアオスジアゲハは生息していない筈である。

  アオスジアゲハの吸蜜

ところが「虫語の翻訳ことはじめ」(五十嵐敬司 小松写真印刷 二〇一二)を読んで吃驚した。というのも、酒田の沖合にある飛島にアオスジアゲハが繁殖していると記されていたからである。少し長くなるが引用してみよう。「アゲハチョウは大まかに、東アジア中心の温帯域から、より南の暖帯域に向かって分布をのばしている種類。これに対してアオスジアゲハは、インドネシアやタイなどの熱帯域から日本などに北上している種類で、日本海側では青森県にまで達している南国のチョウである。庄内地方は、冬季の平均気温が内陸より少し高い。アオスジアゲハ幼虫の食樹、タブノキなども内陸地方には少なく、庄内に多い。つまりチョウの食樹の違いが、分布に関係していることになる。

 しかし昭和二十年代後半の酒田には、今ほどたくさんのアオスジアゲハはとんでいなかった。飛島にもタブノキは沢山あるが、昭和五十年代には見られなかった。ところが五十年代後半から酒田市内で頻繁に目撃されるようになり、今では酒田でも飛島でもごく普通のチョウになっている。これは地球温暖化の影響なのだろうか。どうもそれが主因ではなさそうに思える。遊佐町の畠中裕之さんらは、酒田火災のあった昭和五十一年以後に、酒田市内のあちこちに大々的にタブノキが植樹されたことが関係しているのではないか、と考えている。大火後、お寺が集まる寺町などでは、タブノキの茂みが強風下の火の粉を防ぎ、延焼を食い止めたと喧伝された。こうして市内の各所にタブノキの若木がたくさん植えられ、このチョウの食料事情は著しく好転して、発生数が大幅に増えた。やがて、飛ぶ力の強いこのチョウは飛島にも進出した。この考えには、酒田の植樹とチョウの増え始めた時期が一致しているという、説明に都合が良い事実がある。

  タブノキ

 アオスジアゲハは、酒田では年二回の発生で、六月に少しだけ見かける春型と、八~九月にたくさん発生する夏型とに区別できる。春型は豊富に芽吹いたタブノキの若葉に産卵する。そして大量の幼虫が育ち、夏型のチョウとなる。ところが夏型は、すでに若葉が少なく産卵場所が少ないため、幼虫もたくさん育たない。やっと育ったさなぎも、越冬する間に減数する。だから翌春の春型の数は少なくなる。ただ、夏のタブノキを移植や剪定するなどして人手をかけると、再び若芽を出す。そうすると夏型の産卵場所が増え、翌春のチョウを増やすことになる。」と記されている。

 私が考えていた幼虫の食草であるクスノキは、本州西部の太平洋側、四国や九州であり、ウイキペディアによると「生息割合は、東海・東南海地方、四国、九州の順に、八パーセント、十二パーセント、八十パーセントである。人の手の入らない森林で見かけることが少なく、人里近くに多い。とくに神社林ではしばしば大木が見られ、ご神木として人々の信仰の対象とされるものである。」と記されている。

 クスノキ

私自身の幼い頃からの経験でも、名古屋周辺は寺や神社が多く、そこには必ずと言って良いほどクスノキがあった。蟹江に戻ってから名古屋市内や名古屋城周辺を歩いて、沢山のクスノキが生えているのを見て、改めてその多さに吃驚してしまった。これらのことからアオスジアゲハの北限は、幼虫の食草である照葉樹林の生息域に違いないと考えていたのである。

 ところが庄内地方の酒田や飛島にも生存していることを知り、クスノキ以外のクスノキの仲間があるのかも知れないと考えるようになった。そこで、「日本のチョウ」(誠文堂新光社 日本チョウ類保全協会編)を見たら、「食草はクスノキ、タブノキ、ヤブニッケイなど(クスノキ科)。生息環境は、森林・公園で平地~丘陵地の照葉樹林が本来の生息地。食草が生える寺社林、街路樹、公園なども好む。行動は、日中、高所を敏速に飛翔し、ヒメジョオン、ヤブガラシなどの各種の花を訪れる。オスは吸湿性が強い。生息状況・保全は食草が街路樹としてよく植栽され、都市部では普通に見られるチョウとなっている。」と記されている。アオスジアゲハは、何のことはないクスノキの仲間を食草として選んでいるチョウだったのである。

 四月下旬に木曽川の西側の堤防を降りて、木曽川沿いを歩いてみた。そこは愛知県と三重県を通る県道一六八号線が堤防の上を走り、ニューハートピア温泉が近くにある杉林、竹林、ミカン類の木々などが生える叢がある。そこで、チョウや鳥などの写真を撮ろうと歩いていたら、「タブノキ」という標識が幹に取りつけてある木があった。その葉はクスノキの仲間のようだったが、クスノキのような幹がごつごつした感じでなく、割りと滑らかな幹だったことが印象に残っている。

 タブノキはクスノキと違って、日本海側では青森まで、太平洋側では仙台付近まで分布している。しかも内陸には生えておらず、海岸沿いに分布しているという。普通の植物の北限を決めるのは気温と日長などが主因と思われるが、タブノキは冬の寒さが生息域を決めているらしい。このことは照葉樹林のシイやカシでも当てはまるという。こう考えると、照葉樹林の仲間は東海や関東以南にだけ生息するとは限らないということだろう。

 チョウが食草に産卵する際には、成虫が植物の匂いに惹かれて寄ってきて、ギフチョウのように食草かどうかを確認している筈である。

 クスノキに産卵するアオスジアゲハ

クスノキとタブノキの匂いの成分は、似ているのではないかと予想される。そこで調べてみると、クスノキからは樟脳(しょうのう)が得られ、防虫剤などに使われている。タブノキからは、オイノゲールと呼ばれるものが得られ、タブノキの葉や樹皮を粉末にして蚊取り線香の糊剤として使用されている。共に匂いが防虫の役割りをしていることを示しているが、その匂いそのものは成分としては違っているらしい。

 これらのアオスジアゲハの幼虫の食草は、クスノキ、タブノキ、ヤブニッケイなどは揮発性の匂いを発散するものである。アオスジアゲハの成虫は、食草の匂いに対して受容する匂いの幅があるのだろう。クスノキやタブノキ類に属する匂いを感じたら、そこに産卵するという幅広い感知能力を持っているに違いない。

 そんなアオスジアゲハの能力と共に、食草であるタブノキの分布に規定されながらも、アオスジアゲハがその生息域を山形県の酒田や飛島まで広げていることに、改めて吃驚したのだった。  

 (アゲハチョウ科 アオスジアゲハ属)

                     

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