サケの思い出と言えば一番に朝食に塩ザケを食べたことが思い浮かぶ。でも美味しいものやそうでないものもあったが、塩が効き過ぎてしょっぱいという印象が強い。それでも弁当のおかずやおむすびに入っている塩ザケは美味しかったと思う。食べる際の周りの状況によって美味しく感じたりそうでなかったりするのだろうか。
荒巻ザケを買った経験は全くないが、一度だけ勤めていた短大の理事長の娘の結婚披露宴の引き出物で荒巻ザケを貰ったことがある。何故かそれをいらないという同僚がいて、結局二匹分を貰うことになった。私はどう処理し切り身にしたら良いのか、また胴の部分だけでなく頭や尾の部分もどう始末したら良いか分からなかった。そこで、荒巻ザケを処理した経験のある知り合いに二匹共あげてしまった。
稚魚の孵化
「魚のふしぎ事典」(佐藤魚水 中経文庫)を読んでいたら、こんなことが載っていた。少し長くなるが引用すると「昔は今以上に塩を大事にした。海から遠い山国地方の人びととなると、塩は何にも代えがたい生命の源なのだった。塩を手に入れることは重大だった。わが国には山の中に見られる岩塩の産地がなく、海に由来するものを求めない限り、塩は手に入らなかった。~中略~、叺(かます わらの袋)入りの塩は、運搬に大きな手がかかるばかりか、積みあげて保存しておくことができないからだ。運搬の途中に降雨にあったり、積みあげて湿気を吸うと溶けてしまうのだ。そこで、塩を運びやすく、かつ蓄える方法が考えられた。塩漬けにした魚に塩を抱かせる方法だ。塩蔵魚ならば、魚のタンパク質補給と、魚が抱いている塩の利用という一石二鳥のほかに、魚体に染み込んだ塩が結晶となって、二、三年も保存できた。塩蔵に用いられた魚は、サケが主役だった。赤身魚は長期にわたる保存に向かなかったからである。~中略~、昔、サケの塩蔵品を「荒巻」と呼んだ。体重の二十~三十パーセントもの量の塩が用いられ、内臓を除いたあとにきゅっと塩が詰められていた。サケを長持ちさせるのではなく、山間地方へ塩を運ぶ方法であったのである。」この文章を読むまで、私は内陸まで塩を叺(かます)に入れて運ぶものだとばかり思っていた。塩漬けにしたり干物にすることは、遠隔地まで運ぶための腐敗を防ぐ手段としか考えていなかった。山形や京都の身欠き鰊(にしん)等もそうした工夫の所産だと考えていた。この文章を読んで塩を運ぶ手段としてサケを塩蔵にした側面も考えられるようになった。実際は腐敗を防ぐ手段として初めには塩を使ったのだろうが、その量を多くして、サケを塩を運ぶ手段として使うことを新たに考えだしたプロセスがあったのではないかと思っている。
こう考えると塩ザケがしょっぱいのは当然なのだろう。次ぎに塩ザケの塩抜きをどうするかという問題がある。どうしているのだろう。最近は甘塩によるものや、血圧対策のための減塩のサケの切り身も売るようになっている。そうした荒巻ザケの由来を知ると、ただただ塩辛い塩ザケも、敬遠する気持ちにならなくなるから不思議である。
上述のように私が叺(かます)に入れて塩を運ぶと考えていたのは、「塩の道」(平島裕正 講談社現代新書)を読んでいたからである。その中に「陸路、奥地へ塩荷を運ぶのには、もっぱら背負いが利用されたが、女で二十五貫(約百キロ)俵を二つ背負ったものさえおり、『女は背中で金をとる』ということばがあったという。一般に陸送される場合は、谷道や峠道を利用して近道をとる傾向が強かったようである。」と述べられている。この文中の塩荷が塩だけなのか、サケの荒巻サケなのかは同定できないが、もし荒巻ザケなら冬から春にかけてというように季節に左右される筈だから、そうした記載がないことから塩そのものではないかと想定される。そう考えると荒巻ザケが塩を運ぶ手段だったとしても、主に塩そのものを運ぶ手段があって、副次的な手段だったのではないかと想定している。そうした違いには、海から内陸までの距離の長さも関係したのではないか。
この本の中で上杉謙信と武田信玄の「塩」についての美談についての話があった。NHKのラジオでは、歴史家の加来耕三(かくこうぞう)が塩を武田信玄に売りつけたのだというような話もしていた。平島裕正によるものを、少し長くなるが引用してみよう。「塩をめぐる戦国美談は、戦じょうずな信玄の力を恐れた隣国勢が、山国で塩に恵まれず、そこに弱点を持つ甲州(山梨県)・信州(長野県)領の武田軍に対し、海沿いの産塩地から塩を輸送している方法を閉鎖する方法により、戦わずにして武田領民全体を塩欠乏にさせ苦しめたのを、謙信が自領の越後から塩を融通して救ったというのが骨子になっている。~中略~
『道の日本史』をあらわした村上五朗氏によると、この『塩留め』の発端は、信玄が、自分と軍事、政略の意見を異にする嫡子義信を捕えて自殺させ、その婦人を実家の今川氏真のもとに送り返し、今川との関係を断ったことにあるとし、今川氏は、これに対する報復手段として永禄十年(一五六七)の夏、北条氏康と謀り、それまで遠江・駿河・伊豆から甲斐へ送っていた塩の輸送をやめ、また、塩商人の往来も禁止した。この食塩持ち出し禁止の戦略的効果はひじょうに大きかったため、武田方の軍勢は、翌十一年十二月六日、甲府を出発、十二日内房、穴原に押し寄せ、由比の塩を押さえた。~中略~ この時の戦いで、駿河領の北松野などは武田氏の支配下に入った。信玄は、この手に入れた塩どころから、さっそく自国領下へ塩を送ったであろうから、謙信の塩が十二年正月に到着したときには、自力で手にした塩を甲州や信州深志(現在の松本)城下へすでに届けていたはずである。」
よく言われる籠城には水と米と塩があれば可能だと言われる、その塩を巡る攻防も大きな軍事的な問題だったんだなと思えるようになった。日本が海水からしか塩を取れない状況下で、内陸の人たちへの塩の供給は重要なものだったと感じられるようになった。
採取した卵の選別と死んだサケ
話をサケに戻すと私が気になっていたものには筋子とイクラの関係がある。メスの腹の中で筋子が成長してきて、産卵する時にそれぞれの卵がバラバラになってイクラの状態になると考えていた。というのはメスが産卵するときの映像では、明らかにイクラの状態だし、人工孵化させる時受精させる時の卵もイクラの状態だからである。そのことから私は卵が成熟していく経過に従って、筋子とイクラが分かれると考えていた。
テレビで同じ仕事をする外国人が、日本人の仕事ぶりを見て回る番組で、筋子状のものをイクラ状にする仕事場が紹介されていた。筋子状のものを木綿糸を細かい格子状にしたものの上で、筋子を何回もある力で柔らかく捏ねまわすと、筋子にまとわりついている糸状のものから、卵一個一個が離れてくる。力の入れ具合によっては潰れてしまうのだが、その力加減で潰れることなく、一個一個の卵が取り出される。つまりイクラが出来あがるという訳である。こんな仕事があるのかと吃驚した。
鮮魚市場などで売っている筋子やイクラは、メスの腹から取り出したそのものだと信じて疑っていなかったが、その両者の違いを作りだすのにこうした仕事があるということを、最近になって知ることになった。
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