タナゴ その1

動物編

今でもタナゴの細かい種類の違いは分からない。専門家は形態や生態の微妙な違いが分かっていて、どんな種かを同定しているから凄い。

 私のタナゴとの出会いは小学生の頃、庄内川の庄内川橋の一つか二つ上流に架かる木造の橋を渡って、今の北名古屋市の田んぼの中を流れる川に釣りや魚捕りに行った時に、捕ったタナゴの仲間との出会いが初めてである。

 時期は六月から七月頃だったと思う。その時捕った魚の光沢のある緑、赤、青の鱗の美しさを見て仰天した。しかも見る角度によってその色合いが変化する。こんな綺麗な魚がいるのかと思った。今から考えるとオスに見られる婚姻色で産卵時期だったのだろう。当時の私にはそんなことは分からなかった。そのタナゴの仲間を私たちはセンペラと呼んでいた。タナゴとは呼んでいなかったのである。

 イタセンパラ

 仙台に住むようになって東日本大震災で大きな被害を受けた名取市の閖上(ゆりあげ)の名取川の対岸側の仙台市の河口近くの田んぼの小川でモツゴ、メダカと一緒にタナゴを捕ったことがある。その時捕ったタナゴはタイリクバラタナゴだった。最初はニッポンバラタナゴだと思っていたが、調べてみたら腹びれに白い線が入っていたのでタイリクバラタナゴだと分かった。

 タイリクバラタナゴ

 国立環境研究所の侵入生物データベースのタイリクバラタナゴによれば、「自然分布は、揚子江水系を中心とするアジア大陸東部。生育環境は、平野部の池や河川の淀み。繁殖生態は、ドブガイなどの鰓葉に産卵する。繁殖期は三~九月。食性は雑食性で動物プランクトンや付着藻類。形態は全長六~八センチ。日本バラタナゴとの相違は、腹鰭前縁にある白線。体は側扁して体高は高い。口ひげはない。分布は日本全体となっている。侵入経路は、食用に移入されたハクレンなどの種苗に混入して関東に導入されたものが放流などにより分布を広げた。琵琶湖へは一九六〇年代はじめに霞ヶ浦で養殖されたイケチョウガイとともに卵が運ばれたと推測される。容易に交雑(ニッポンバラタナゴ)。産卵母貝の競合。影響を受ける生物はニッポンバラタナゴ、ゼニタナゴがある」と述べられている。産卵する二枚貝、食性と交雑が簡単に起こることからニッポンバラタナゴと同じ生態位置にあり繁殖力も強いのだろう。

 外来生物を近視眼的に食料としようと移入した結果、時間経過に伴って日本の在来種が絶滅危機に瀕することが起こり得る。そうした動物としてウシガエル、アメリカザリガニ、ライギョ、ブラックバス、ソウギョ、ブルーギル、ハクレン、ヌートリア、ジャンボタニシ、カミツキガメ等いくつも外来生物を挙げることができる。もっと長い目で日本の生物にとって有害になり得るかどうかの視点が、今こそ必要になっているのではないかと思う。

平成二十八年八月三日付の中日新聞に、イタセンパラが一宮市尾西歴史民俗資料館で水槽に入れて展示してあると載っていた。そこで早速それを見に行った。二階の部屋に二つの水槽が置いてあり、一つにはイタセンパラが一五匹位入っていた。もう一つにはウグイの仲間の魚が泳いでいた。私はそこでシャッターを切ったが明るさの関係でうまく撮ることはできなかった。私の思っていたより大形の魚だった。華やかというよりは地味な感じだった。繁殖期でないから雄の婚姻色が見られなかったからだと思う。私が小中学生の頃捕ったセンペラはこれだったかどうか、何十年も経っているので覚えていない。でもタイリクバラタナゴを見て小さいなと思ったからイタセンパラだったのではないかとも思う。その当時は木曽川から流れ込んだ中流域の川や庄内川にもいたのではなかろうか。

 この水槽の傍にイタセンパラの資料(国土交通省 中部地方整備局 木曽川上流河川事務所発行)が置いてあった。それによると、イタセンパラはコイ目、コイ科、タナゴ亜科、タナゴ属に属し、国の天然記念物になっているという。近くの木曽川高校の生徒たちが許可を得て飼育を行って保護活動をしているとのことでその掲示資料などが展示されていた。このイタセンパラは環境省レッドリスト絶滅危惧一A類(ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が極めて高いもの)に属し、生息地は世界中で富山平野、濃尾平野(木曽川)、大阪平野(淀川)の三か所に限られているという。

 木曽川の中流域ではワンドと呼ばれる淀みがあり、そこにイタセンパラが生息している。ワンドについては「川の本流のまわりの入り江状(または水たまり状)になっているところで、大雨が降って川が氾らん(洪水で川の水があふれること)したときに、水が流れる場所『氾濫原』にできます。ワンドは、河原が水に浸かったあとにできる水たまりのような環境で、流れがゆるやかなことから、泳ぐ力のよわい魚や、水草、水生昆虫などの大切な住み場所になっています。木曽川中流部にたくさんみられるワンド群周辺では、イタセンパラの他、イチモンジタナゴ、ベニイトトンボやカキツバタ等の希少生物が確認されています。」と記されている。

 イタセンパラの生活史は「二枚貝の(イシガイやドブガイなど)の中に産卵するめずらしい特徴を持っており、秋に産卵し、貝のなかで孵化し仔魚(子ども)は、冬のあいだを貝のなかで過ごします。春になって貝から泳ぎ出してしばらくは、水際の植物のまわりで過ごし、大きくなると浅い水底に付着した藻類を食べ、秋に産卵した後は死んでしまう、というほぼ1年サイクルで生きています。また、イタセンパラが産卵する二枚貝は、幼生(子ども)のころ少しの期間、ヨシノボリ類などの魚のエラの中ですごしたあと、地面の中に移動して大きくなります。このように、イタセンパラの生活史は、二枚貝やヨシノボリなどの魚類と深くかかわりあって成りたっています。」となっている。

  イシガイかな?

 イタセンパラがどうして減ってきてしまったかについては、①ワンドの環境が悪くなった。ヘドロが溜まって二枚貝が住みづらくなったり、樹木が茂って餌である藻類が育たなくなった。②外来種が侵入してきた。二枚貝を食べたり、外来種が産卵するために二枚貝を奪ってしまう。③ワンドの数が減ってきた。昔に比べて減ってきた。④密漁されてしまう。法律で捕獲が原則禁止されていますが、心ない人が採ってしまうことがある。等が記されている。

 木曽川のワンドが減ってきた③の理由について木曾三川(木曽川、長良川、揖斐川)の歴史的な治水との関連がある。木曽三川の整備の歴史をみると「木曽川中~下流部は、木曽三川の氾らんにより運ばれた土砂が形成する濃尾平野に位置しています。木曽三川はかつて網目状に流れる自然河川でしたが、およそ四〇〇年前ごろ、ひんぱんに生じていた洪水被害への対策として、木曽川左岸に大規模な堤防(御囲堤)や輪中がつくられました。江戸時代中ごろになると、三川を分けることを目的に、油島の締切りなどの工事(宝暦治水)が行われ、明治時代に入ると、海外の技術を取り入れた改修工事により三川分流が実現し、川の大部分が連続的な堤防に守られるようになりました。」と記されている。今の木曽三川は、こうした歴史的な努力によってつくられた三川分流なのである。

 この木曽三川の分流工事に際して、私はいつも薩摩藩の河川工事のことを思い出す。一七五三~一七五五年の宝暦年間に幕府の命令で膨大な資金と人材を投入した工事である。薩摩藩が松を植えた千本松原として今でも残っている。この工事のために多くの薩摩藩士が死んだと言われている。尾張では御囲堤として尾張には洪水が入らないようにさせて、美濃側の堤防を三尺(九一センチ)低くするようにさせた。徳川の威光を利用したものだろう。この三川分流をすると、その各川の水位に違いができて、それが他の川に流れ込みやすくなる。濃尾平野は、名古屋城のある東から養老山脈の西に従って土地がだんだん低くなっている。どうしても長良川、揖斐川側が氾濫することになり、そこで輪中などを作って対策を取らざるを得ないことになる。岐阜県や三重県側の美濃側には輪中が沢山あるが、木曽川の東側の尾張側には全く見られない。今見る木曽三川の洋々たる川の流れを見るにつけ、何だか虚しい気持ちになってしまった。(タイリクバラタナゴ コイ目 コイ科 バラタナゴ属 バラタナゴ)                             

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