スベリヒユ

植物編

スベリヒユは私たちの身近にあり、庭先に生える雑草である。道路から少し入った野原にいけば、必ずというほど這いつくばって生えているのを見かける。こうしたスベリヒユを茹でて酢醤油で食べると、酸味があり粘りがあって糸を引くと聞いたことがある。これは東北に来てから聞いたことである

   スベリヒユ

日本人は、納豆や餅のように粘りがあるものが好きである。餅もうるち米を粘りがあるものを選別してもち米にしたのであり、粘るものを好む傾向は中尾佐助のいう東南アジアを含む照葉樹文化複合地域の特徴といわれている。照葉樹林というのは、表面が反射して光る葉っぱを持つ木々のことである。樫やツバキなどもこうした木に入る。こうした森は、東北の森のように秋に落葉して山肌が丸見えになる森ではなく、一年中薄暗くしかも落葉(一年中少しずつ落葉している)せずにいる森のことといえようか。こうした地域に住んでいる人々は、粘る食べ物が大好きなのである。

天童に住むようになって、ある時山形に出かけて駅前の歩道を歩いていたら、道端でお婆さんが座って野菜を売っている中に、何とスベリヒユを売っているではないか。何でこんな雑草のスベリヒユを売っているのか訳が分からなかった。また天童の農産物市場に行たら、生産農家名がついたスベリヒユを売っていた。ちょっと野原に行けば、この時期(8月の下旬)にはたくさん採れるので、採集者名ではなかろうか。

   スベリヒユの花

山形県では、このスベリヒユを「ヒョウ」と呼んで、色々な料理に使う食文化がある。山形に何故こうした文化が定着しているのかその理由は分からないが、上杉鷹山の質素倹約の政策によるものではないかと私は推測している。会津の上杉家は当時120万石だったが、関ヶ原で西軍が破れ会津から米沢30万石に減らされて転封された。その後、後継者がいなくなるトラブルから15万石に減らされてしまった。こうした時期に、血の繋がりのある養子として日向(ひゅうが)の秋月藩から迎え入れられたのが上杉鷹山である。その当時も120万石に相当する家臣6000人を養っていたという。鷹山の名言「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」も、この家臣の数の多さを知ればその意味がよく理解できるのである。

こうした質素倹約のために家々の垣根にウコギを植えることを奨励し、その若芽を御浸しにしたりてんぷらにしたりして食べたのである。最近ではウコギ茶をペットボトルで売り出している。こうした上杉藩の質素倹約の中に、雑草であるヒョウを食べる食文化が定着したのではないかと推測している。

ヒョウ料理には、例えばヒョウを乾燥して後に湯戻しして、豆、ニンジン、油揚げやちくわと一緒に煮て食べる正月料理などがある。安っぽい食材というよりは、ヒョウが入らないと正月料理にならない存在である。こスベリヒユの粘りが必要というよりは倹約としての食材ではなかったか、それが結局は山形の郷土料理に昇格したのではないかとも考えられる。

  イタドリ

江戸時代までは、私たちが今では食べない身近にある雑草と言われる植物を料理して食べていたのが一般的でなかったか。四国の高知でも、この辺りでも沢山生えているイタドリを郷土料理として今でも食べられていて、土地を離れた人たちがそれを懐かしく思うほどの存在となっている。山形県人にとっては、ヒョウはそうしたものではなかろうか。

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