動物体験から学んだ認識の変化

動物の写真を撮りだしてから、それぞれの動物について興味や関心が段々と広がり深くなってきたように思う。最初はカメラの撮影技術も未熟、しかも携帯用のデジタルカメラだったせいで、ある動物の写真を撮るだけで満足していた。場合によってはぼやけてしまっていても、その存在が確認できればそれで良しとしていた。デジタルカメラから一眼レフのカメラに代わっても、それは基本的に同じだった。

蟹江に帰ってきてから、「空飛ぶ宝石」と呼ばれるカワセミに出会いたい、その写真を撮りたいと思っていたが、どこにいるのかさえも分からなかった。ところが愛西市の善太川にカモの写真を撮りに行った時、偶然目の前からカワセミが水面上を真っすぐ対岸に飛んでいくのを見かけた。必死にシャッターを切ったが、遠く離れていくカワセミの青色の背中がぼんやり写っている写真しか撮れなかった。しかし写真が撮れたことがとても嬉しかった。カメラに被写体として収めただけで満足だった。ある日の夕方に、今度は対岸のコンクリートの護岸の上から、水中に飛び込んで魚を捕っているカワセミの写真を撮ることができた。ぼやけているものの姿かたちが確認できるものだった。しかし当然ながら飛び込み飛び上がってくる様子は、やはりぼやけてしまっていた。

 そんな積もりで善太川を歩いていると、これまで偶然に出会うと考えていたカワセミに、いくつかの習性があることが分かってきた。自分の行動領域(縄張り)があることや、採餌時間や採餌場所も何か所かに決まっていることに気がつくようになった。

最初はその姿を捉えるだけで満足していたが、段々とカワセミの生き様や習性に疑問や関心を持つようになってきた。存在そのものから習性などの細部に関心を持つようになってきたのである。昔、学習について「漬け込み」の意義を考えたことがあった。とにかくその場にいて、その場の雰囲気や状況に浸っていることが重要で意義があるという考え方である。そこでの学習形態は無意図的教授―無意図的学習によるものだが、学習者側の認識の変化として考えてみると、表面的な認識から対象の細部の深い認識へと学ぶための時間経過を保証している場であるようにも思える。カワセミの姿の写真では満足できなくなり、その仕草や行動習性に関心を向けられるようになってきた。それが「漬け込み」という期間と場によって、細かく知悉(ちしつ)することに繋がってきたのではなかろうか。単なる表面的な認識から細部の認識に至るまでの、十分知るための無意識の学習期間が必要ではないかということである。

カワセミの習性に関する認識は、こうした知悉期間による疑問として思いつくようになるだけでなく、他の方法による場合もある。日光川の土手で偶然写真を撮っている人とも話すようになった。その人はカワセミとタカの写真を撮っている人だった。その人から、カワセミは子育て中には用心しなくなるので写真を撮りやすいこと、採餌時刻は朝方と夕方で午後三時頃から採餌することが多いとの話を聞いた。それからその時刻になると、カワセミがいそうな場所に出かけるようになった。

カワセミの習性や生き様を知るようになった時、六月頃に日光川と善太川の合流地点にある鍋蓋新田の排水場にあるコンクリートの護岸で、カワセミ親子を見つけた。そろそろ親離れする時期なのだろう。幼鳥は親鳥に甘えようとするが、親鳥はそれを突き放そうとしていた。そんな写真を偶然にも撮ることができた。人間に較べて、野生動物は子どもたちを激しく攻撃して自立を促す。そうしないとカラス、タカやイタチなどの敵に捕食されてしまう。親鳥は親鳥で、来年に向けての産卵や育雛(いくすう)の準備をしなければならない。だからどんなことがあっても今親離れさせなければならない。人間社会に較べると、野生動物のそうした基本的な行動は生得的な本能であるがゆえにきちんと行っている。それに較べると学習能力が高いと思われる人間は、そうしたけじめをつけられずにルーズになってしまっているとしか思えない。

認識の変化については別の経験がある。鳥たちの姿かたちや飛翔の様子など、最初のうちは、その鳥がどんな飛翔の仕方をするか皆目分からなかった。そこで種類ごとの姿かたちや特徴を細かく確認しながら同定していた。飛翔している鳥たちについても、それはヒヨドリではないか、ムクドリではないかと予想しながら写真を撮って確認していた。しかしこんなことを何年か繰り返しているうちに、飛んでいる鳥の姿や飛翔の仕方を見た瞬間に、どの鳥かがほぼ分かるようになってきた。その鳥の姿の雰囲気で、どの鳥だか認識できるようになってきたのである。この経験は自分でも不思議なことだと思っている。蟹江周辺で飛翔する鳥では、ヒヨドリ、ムクドリ、スズメ、カワラヒワ、カワウ、カワラバト、カラス、ツグミ、ノスリ、トビ、チョウゲンボウ、オオタカ、イソシギ、ケリ、ダイサギ、アオサギなどである。細かい区別すべき違いを確かめた上で、どの鳥かを同定しているのではなく、全体の印象とか雰囲気ですぐに区別できるようになってきたのである。こうした認識の変化はとても不思議なことである。

しかしこの大雑把な直感的な認識には他の分野でも思い当たるものがある。例えば熟練した職人の世界は職人の勘が重要なものといわれている。AIによる自動化によって職人の勘に頼っていた技を機械で代替しようとする試みは、昔から行われてきた。それでも数ミリとか数ミクロンとかいう微妙な細工に関しては、機械では完全には再現できないらしい。それらは熟練した職人の技、直感ともいえる勘に頼った技によって作り上げているとのことである。新幹線の車両の先頭部分は職人の手によるものと言われているし、天皇の御列の儀に使用されたトヨタのオープンカーの塗装は、熟練した職人の技によるもので、世界に一台しかないものと紹介されていた。こうした理屈を詰めていく作業が熟練の域に達すると、直感とか勘とかいうレベルのものに変化するようなのである。

また羽生元名人の将棋についても同様で、彼は若い頃には理詰めの将棋を指していたと思われるが、七タイトルを取った頃から直感に頼って将棋を指すようになったと読んだことがある。確かにプロの棋士たちが何人をも相手に将棋を指すニュースを見ることがあるが、その将棋の盤面を瞬時に理詰めで読んで指しているとは思えない。そうではなく、盤面の全体的な情勢を見て次の一手を直感的に指しているのではなかろうか。しかしこれも理詰めの将棋を長い間指してきたからこそ、その直感が有効に働くのではなかろうか。こうした瞬時の判断ができるのは、理詰めの学習があってこそできるようになる可能性がある。

私が鳥たちの形や飛翔の姿を同定できるのは、その具体的な違いを一個ずつ学習した結果として行えるようになったのか、それとも長く「漬け込み」をしている、つまり鳥たちを眺めたり飛翔している姿などを見ているだけで、自然に同定できるようになったのかは、興味深いところである。今のところ理詰めによる他の鳥との区別や、飛翔の違いを経験することによって、瞬時に同定できるようになったのではないかと考えている。

                               

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