ニワトリの四本足論争

その他編

教育の世界では昔から色々な教育論争はあるが、面白い論争がある。それがニワトリの四本足論争である。それは児童・生徒・学生たちにニワトリの絵を描かせると、足を四本描いてしまうというのである。「学力と思考」(佐伯胖 第一法規)によれば、昭和四九年に秋田大学の小笠原助教授(生物学)が一年生の学生にニワトリ、イヌ、ウマの絵を描かせたら、一〇~一五%が四本足のニワトリを描いたという。また岐阜県中津川市の小学校、都内の小学校でも一〇~二〇%が四本足のニワトリを描く子どもがいたという。

  ニワトリの絵  右は三根による研究の幼児の事前に描いたワシ  学習後のワシの絵

 一九八八年十一月八日の朝日新聞には次のような記事が載っていた。「広島県の中学校で、理科の先生がニワトリの絵を生徒に描かせたら、きちんとした姿になったのはごくわずかで、一割以上の生徒が足の数を間違えて四本にするという結果が出た。瀬戸内海に面した竹原市の中学校である。同校の一~三年生一五三人がそれぞれ描いたニワトリの絵について、トサカがあるか、尾があるか、足の数などの九項目をチェックした。その結果、正しく描けていた生徒は三人だけで、後は少しずつ違っていた。トサカがない(三人)、嘴がない(九人)、尾がない(一四人)という調子である。特に足の部分があやふやで一九人の絵は四本足のニワトリになっていた。自然という点では、この学校は、夏になれば校舎の壁にカブトムシが取りつくなど都会よりずっと豊か。中学では理科の時間に鳥の体の仕組みを本格的に教わる。それなのに、今回の結果。『結局、自然とのかかわり方が昔より薄く、ニワトリを抱いたり追いかけたりの直接の経験が減っている』とその教師は見ている」というものである。

 なぜ四本足のニワトリを描いてしまうのか。その理由の説明には上述のように、自然との触れ合いがなくなったことが原因ではないかというものがある。そうだとすると、自然が残されている農村部の子どもたちと、都会の子どもたちの間に四本足のニワトリを描く割合に差があっても良い筈である。しかし結果を見ると同じような割合になっている。とすれば子どもたちが置かれている環境の違いだとは言えなくなる。

 次に考えられるのは、動物の進化についての概念が欠落しているのではないかというものである。進化の過程で、爬虫類や哺乳類のような四つ足が、鳥類では上肢(前足)の二本が羽に変化したのである。だから後肢(後ろ足)は二本でなければならない。二本足と考えられないのが問題であり、日本の生物進化についての教育が十分行われていない結果ではないかというものでなる。

 それに対して佐伯はロッシュの研究を敷衍(ふえん)して、「典型による概念理解」の現れではないかと考える。ニワトリは家畜に類する動物である。ウシ、ブタ、イヌ等は全て4本足である。ニワトリも家畜だから他の家畜と同様と考えて、ニワトリの足を四本に描くのではないかと予想するのである。

  ワシの仲間のトビ

  ワシの仲間のミサゴ

 私も短大生に授業の中で「私たちは意識的にものを見ないと、詳しい情報は得られない」ということを知らせるために、月の満ち欠けの順序を尋ねたり、ワシ、ニワトリ、トンボ、アリの絵を描かせたりした。もし佐伯が予想するように、ニワトリが家畜なら四本足を描くだろうが、ワシは家畜だとは思っていないだろうから二本足にする筈である。その詳細なデータは得られなかった。というのは、授業で学生同士が見せ合って四本足を描いた学生も二本足に直してしまうからである。何年間にわたる結果についての私の印象では、ニワトリを四本足に描く学生の半分位は、ワシでも四本足を描いていた。そのことから、「家畜の典型」によって四本足を描くというだけではないように思う。

  ワシの仲間のオオタカ

つまり直接体験であれ、進化論的な見方であれ、ましてや家畜のよる典型であれ、ある知識が対応する物と行ったり来たりさせる相互作用を経ない、字面だけの知識の持ち方(暗記学習による知識だけで、新しい場面で応用しようとしない姿勢)をさせている問題こそが原因でなかろうか。日本の教育全体に蔓延している教育の質の問題がこのニワトリの四本足論争に象徴的に表れているのではないかと考えてしまうのである。

 今回、ニワトリの写真が得られなかったので、「認識を育てる自然の指導 藤永保他 フレーベル館」と「幼児の自然認識における対象理解への学習援助の試み 三根真奈美」からの図を使わせてもらった。後者では、幼児に形と暮らしの紙芝居を見せると、可愛いニワトリの絵からワシらしい絵に変化した。幼児でも認識の変化が絵の内容を変えることが分かったのである。

コメント