カタバミは実家の庭のいたるところで咲いていた植物である。その色は黄色で5枚の花弁を持っており、葉は3枚である。一見するとバラ科かマメ科かと思うけれど、実はカタバミ科である。私の知識の範囲だとそんな混乱をしかねない花である。花が咲いてできた実は、ゲンノショウコと同じつき方をしていて、はじける仕組みを持っている。私自身は食べたことはないが、シュウ酸が含まれているから酸っぱい味がするらしい。イタドリ(スカンポ)も同じようにシュウ酸が含まれていて酸っぱい筈で、高知県辺りでは故郷の味として料理されている。しかしシュウ酸は一時発癌物質だと騒がれて、山菜を食べることを控えるようにとの話も過去にはあった。
他の野草の写真を撮りに行くと、土手や畑の畦のどこでもカタバミが咲いている。生育状況によって、とても小さい花の時もあるし大きい花の時もある。名古屋の実家には、黄色いカタバミだけでなくピンク色のカタバミも咲いていた。どこか園芸種のような気がして余り好意は持てなかった。私自身は栽培の花よりは、理由は自分でもわからないが野生の花(野草)の方が好きである。
10月初旬、天童高原に向かう道すがら、途中の荒地の野原の片隅に車を止めて散策していたら、ピンクのカタバミが咲いていた。秋になって野原にピンクの花が咲いているので目立つのである。
カタバミは昔から家紋として使われている。山形県では鶴岡の酒井氏の家紋もカタバミと聞いたことがある。なぜカタバミかというと、繁殖力が強く荒地でもどんどん増えていくことから子孫繁栄の象徴として使われているらしい。
そこで鶴岡の酒井家について調べてみた。酒井家は徳川の譜代で名門であり、井伊、榊原、本田と合わせて徳川四天王と言われている。途中で多少の不手際があって、他の三家よりは後れを取るが、その子孫はいくつかの酒井家に分かれて、酒井忠勝(左衛門尉家 さえもんのじょうけ)の頃に出羽庄内藩に移封された。譜代は老中にはならないという慣習があったものの、五代藩主酒井忠寄は16年間にわたって老中となり、その結果藩の財政は疲弊する。それを支えたのが経営能力に長けた有名な本間光丘である。この本間家は当時3000町歩(一町歩はほぼ一ヘクタール 100メートル四方の土地)の田畑と小作人を持ち、「本間様には及びはせぬが、せめてなりたや殿様に~」とうたわれた豪商である。こうして酒井家は明治まで続き、明治後は華族の伯爵となったと言われている。
酒田は最上川が海に出る港であり、北前船が停泊し、大阪や京都への物資輸送の中継地であった。本間家がこれほどの土地と資産を蓄積できたことは、こうした地の利と共に、山形が昔から紅花の生産地であったことも大きな理由である。谷地(やち)などの内陸で紅花を咲かせて、それを紅餅(紅花を発酵させたもの)にしたものを最上川を利用して、酒田まで運び、北前船で京都や大坂に運んで、そこで紅(べに)に加工したのである。紅花からは黄色と赤の色が取り出せる。天童周辺でもお土産用に、黄色と赤い茜色のハンケチなどが売られている。こうして京や大坂で紅餅を売ったお金で、京文化や上方文化を逆に山形に持ち込んできたのである。大きなものでなく、京文化や上方文化の象徴として、雛飾りの道具を持ち込んだのである。
山形に来て雛祭りの前後に、いたる所で雛飾りの道具の公開が行われている。最初は子供の遊びかと思っていたのだが、そうではなくこうした時代背景の下で行われている行事なのである。私は友人の女性客が訪ねてくると、その時期には寒河江の慈恩寺の近くの陣屋の雛飾りを見せに連れて行っている。また、皆さんも是非この時期に見に来て欲しいものである。
鶴岡のマリア幼稚園の副園長の渡会先生と話していたら、徳川家の葵の紋は、もともとは酒井家の家紋だったのを、松平から徳川家に変わるときに、徳川家に譲ったと言われていると話してくれた。その結果、酒井家はカタバミの紋になったというのである。譜代の家臣として、そんなこともあり得るだろうなと思ったものである。
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