オナモミ

植物編

小さい頃はこれを投げ合って、セーターなどにくっつけて遊んだものである。秋口に野原などに行くとオナモミの実がなっている。最初は緑色だが枯れてくると茶色のがっしりした実になる。最近見かけることが少なくなって、私自身は十年位見かけていなかった。世間では「ひっつきむし」と呼ばれているようだが、授業で学生に話したら山形のある地方では「くっつきぼんぼ」と言うのだそうである。どの地方でも、これをくっつけて遊んでいるのだなあと思ったものである。

先日、高瀬から山形市に抜ける紅花トンネルの手前の駐車場に車を置いて、その周辺をカメラを持ってぶらぶらしていたら、畑の周りの雑草に交じって、オナモミが何本か生えていた。殆どのものは、既に緑の実をつけていたが、何本かは茎から花芽がついていて、それが大きくなってオナモミになると思われるものがあった。山形県内でオナモミを見たのは初めてである。その後、山形市の大野目付近の水田脇や、宮城県の川崎町の道路脇で見かけた。探そうとしなかったから見つけられなかったのかも知れない。

オナモミはキク科であるが、花芽がついているところは菊の蕾には見えないので調べてみたら、キク科なのに風媒花であると載っていた。また日本の在来種の他にメキシコ産のオナモミが繁茂しているようなのだ。昔に比べるとオナモミは少なくなっており、私自身は見つけた時はとても嬉しかったことを覚えている。

私は遊んだ想い出しかないのだが、ある本(題名を思い出せない)を読んでいたら、その実を割ると二つの種があって、一つは大きく一つは小さく、蒔くと大きいものが早く発芽するが、小さいものの発芽時期が遅れると書いてあった。これもワラビと同じように、発芽時期をずらして子孫を残す戦略だと思われる。

オナモミを投げると服にくっつくが、それは単なる棘ではなく、その先端が曲がっているから服にひっつくと書かれていた。この原理を使って面ファスナーができたと言われているが、実際には野生ゴボウの実が由来だそうである。こうした自然の仕組みを利用する人間の知恵も大したものだと思う。

私の専門は教育心理学で主に人間の認識(知識)の研究をしてきたが、人の認識(知識)は網の目構造ではないかと思っている。ある事や物を知ると、関連した知識が思い浮かんでくる。こうしたある概念(法則)を中心に他の事例などを関連させるようにすることを、私は「オナモミ認識論」と名づけている。私の経験を話すと、例えば、小学校でカタツムリを飼って、子供たちが餌である植物を与えないと、カタツムリは生きるためにいつもは食べない紙やパンなども食べる。こうした例から「動物は飢えると、生きるためにいつも食べない物も食べるようになる」という一般的な概念(法則)を作ってみる。他にもないかと探すうちに色々な例を見つけるようになった。例えば、フランスの実験医学の父と言われるクロードベルナールの実験で、ウサギを絶食状態にしておくと肉も食べるようになる。また、北海道の渓流に住むマスは、場所の棲み分けができないところでは、一種は水面の、一種は水中の、一種は底近くの餌で我慢するそうである。本当なら川の餌の好きなものを食べたいのに、生きるために我慢するのである。

同じようにパンダの餌の問題も考えられるようになった。パンダは熊の仲間だから、元々は雑食だった可能性がある。ところがパンダが住む環境は、ある事情でササだらけになってしまった。そこでパンダはササを食べて生き抜くようになった。本来はササを食べたい訳ではないのだが、仕方なくササを食べるようになり、進化の過程でそう変化してきてしまったのである。ササの栄養が十分でないことから、熊の子どもは大きく生まれてくるのに、パンダは小さい赤ちゃんしか生まない理由も、そのことと関連するのではないかと考えている。

「動物は飢えると、生きるためにいつも食べない物も食べるようになる」という一般的な概念(法則)を中心(オナモミの棘)にして、これまでばらばらだった知識が纏められるように(ひっつく)なってきたのである。自分では、とても良いアイディアだと自画自賛しているのだが、どうだろうか。

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