8月を過ぎると道端に黄色いキク科の花を見ることができる。一本で咲かずに群れて咲くので、その点で存在感がある花である。キクイモである。
キクイモの花
その黄色の花弁も印象深くて一度見ると忘れることはできない。この花は小さい時から見ているが、その花について自分の経験と関わってきたということはない。それでも、この花は、ヒガンバナと同様に救荒植物だと頭に刷り込まれているので、その根がどんなものかとか、それからデンプンが採れるのだろうと単純に考えていた。実際にはこの芋を天ぷらにしたり漬物にしたりしている。
救荒植物として自然に生えている植物を冷害時に使うのだろうと考えていた。江戸時代の天明の大飢饉(1782~1788)では、世界的に火山の噴火があり、アイスランドのラキ火山、岩木山や浅間山の噴火によって、世界中が火山灰によって被われて、日光が地球上に届かずに冷害が起こったといわれている。浅間山の噴火によって近くの村が全滅し日本のポンペイと言われていると読んだことがある。杉田玄白の「後見草(のちみくさ)」によれば、津軽地方では餓死者が多数出て、馬を殺したり雑草までも食べ、その果てには壁の稲わら(壁の土のつなぎ)さえも食べたと言われている。
キクイモの芋
こうした冷害による被害は、平成5年の日本でもあり、梅雨明けがないまま九月になり、稲が不作になった。それまで減反政策で余ったコメを処理するのに四苦八苦していたのが、突然の不作でコメの量が足りなくなって、タイ米などのインディカ米などの輸入もしたことは記憶にあるところである。現代日本ではこうした冷害があっても多分餓死者が出ることは殆どないと考えらえる。それに対して江戸時代はどうだったかといえば、幕藩体制でそれぞれの藩が独立していて、独立採算だった。そのため他藩のために藩内のコメなどの食糧を融通することはできなかったのである。また交通や流通の便も当然悪かったから、致し方ないことだったとも思える。
こうした時代に、太平洋岸の津軽や南部などの被害地(ヤマセの影響で)での救荒植物として、ヒガンバナやキクイモが食べられたと勝手に考えていた。予想されるものでは、他にクズなども含まれているだろう。
私自身はこうした推論をして救荒植物として、キクイモが農民たちに利用されていたと思い込んでいたのだが、ある資料を見ていたら、キクイモは幕末に日本に入ってきた植物で塊茎を家畜の餌や食用にするために輸入したとのことであった。
天明の大飢饉のときにはこのキクイモは未だなかったことになる。天明の飢饉の際には、人々の生きる糧にはならなかった。家畜の餌といっても、ひまわりのように大々的に栽培すればある量が収穫できると思うが、今の状態ではこうした需要に十分に応えることはできないだろう。
私のキクイモと天明の大飢饉の関連づけは間違っていた。この無関係という関係を持てるようになったことで、どちらのことも分かるようになった気がする。これも知識の作り方、増やし方だと思っている。
先日農産市場に行ったらキクイモの根を売っていた。それほど高くはなかった。テンプラの材料として使うように記されていたが、見るからにショウガのような姿形をしていた。灰汁などがあるかどうか分からないが、テンプラにすればなくなるだろう。天童辺りではキクイモを食べる文化があるのかもしれない。
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