紅花(ベニバナ)

植物編

紅花は山形県では今でも栽培されている。江戸時代には、最上や村山の内陸で栽培された紅花を紅餅にしたものを、中継地の大石田を経由して、最上川を使って酒田まで出て、酒田から京都や大阪に北前船で運んで、そこで紅を製品化して販売したのである。その当時の最上川は輸送の手段として重要で、恐らく難所などの浚渫(しゅんせつ)等も行われたと思われる。

高瀬で見かけたベニバナ

最上川は山形県だけを貫流する川で、山形県人にとって愛する川となっている。例えば、山形県民歌は昭和天皇の御製に曲をつけたものだが「広き野を ながれゆけども最上川 海に入るまでにごらざりけり」と歌われている。人々が集まる祝賀会や懇親会では、皆でこの歌を歌うことが度々ある。また最上川舟歌もこうした当時の風情を感じさせる民謡である。

 こうした紅花を作る伝統は今でもあって、夏になると紅花を栽培している農家も多い。私が知る地域は、山形の高瀬地区の紅花畑は有名である。夏になると公民館で夏祭りがあり、その際には紅花も販売されている。新聞紙にかなりの本数を包んで500円で売っている。偶然にその祭りの時に通りがかって、その紅花を買って友人に持参したことがある。紅花はキク科の植物で蕾に棘があって触ると痛い。昔はそれを湿っていると痛さが薄まるので早朝に摘んだらしい。この花はおおよそは黄色だが、筒状花の中心は赤くなっている。赤と黄色の色が取れると言われている。

 紅花の黄色色素は水溶性で水に簡単に溶けるので、衣料品や料理の着色(くちなし同様に)に使われている。ところが紅色は水に溶けないため、色々な工夫が必要となる。

 そこで、赤色色素を取り出すために、まず水溶性の黄色色素を取り出す工程があり、次に紅餅を作る作業がある。①まず足で踏んで絞って、水の中に黄色色素分を取り出す ②残ったものを日陰干しし数日間寝かせ発酵させる ③発酵した紅花を臼で搗いて団子にする ④それを筵(むしろ)で踏んで煎餅(せんべい)状にしてまた天日干しする ⑤それが紅餅である という工程である。江戸時代には高級な紅色の服を庶民は着用できず、黄色は許されていたので、紅はその意味でも高級な製品だったと言える。

 こうして赤色素を持った紅餅から赤色を取り出す時には、灰汁(あく)を加えてアルカリ性にする必要がある。すると赤色が溶けだしてくるので染液はそのアルカリ性を中和するために、今度は酸性の液が必要である。クエン酸や梅酢などを利用していたようである。

  学生が染めたベニバナ染め

 専攻科の安喰先生が、毎年学生たちに調理実習室で紅花染めをやらせている。紅餅ではなく乾燥した花を使っており、2日がかりの工程である。その時には廊下を通ると酢の強い臭いがする。きっと赤色を取り出すのに使ったアルカリ性を、染液にする時に中和させる酸なのだろう。これも山形ならではと思い、学生が全国に散っていくのを考えると良い思い出になるのではないかと思っている。

 山形の河北町谷地には紅花資料館があり、私も何度か訪ねている。紅花を扱って財をなした堀込家の敷地と建物がある。その資料館の中には紅花作りの工程や、それを使ってできた着物などの展示がしてある。こうした豪華な品々をもたらしたのも、紅花による繁栄によるものである。時代の流れで価値観が変わって紅花を使うことが少なくなったが、山形県では紅花油(サフラワー油)をその効能であるリノール酸の多さと健康に良い油として売り出している。また紅花は紅花墨(べにばなずみ)や種を家畜飼料としても使っている。山形といえばサクランボだろうが、それよりも古い紅花も忘れないでほしいと思うのは欲張りだろうか。

 先日、市場調査の仕事で娘が孫と天童に来て、山寺から市場調査の大型電気店に行く途中で、近くに高瀬の駅がある筈だが、是非行ってみたいと頼んできた。夏に孫をトンボ捕りや谷川で水遊びさせていた地域が高瀬地区だと話すと、高瀬駅に行きたいと言い出した。なぜ高瀬駅かと言うと、ジブリ作品の「おもひでぽろぽろ」が高瀬地区の農家での紅花摘み体験と関係するアニメーションで、その駅が重要な部分だとのことだった。

 この作品は、刀根久子作のもので、東京にしか故郷がない岡島タエ子が姉の嫁ぎ先の山形の高瀬地区に来て、色々の経験をするというストーリーである。年下の勤めを辞めて有機農業をやるようになったトシオと関わりを持って、最後は嫁に行くことを決断する。そのきっかけは本家のばあさんからトシオの嫁になってくれないかと請われて返事をしかねるのだが、高瀬駅から仙山線で仙台方面に帰る時、車中で戻ることを決め次の山寺駅で降りて、山形行きの電車に乗り換えて高瀬駅まで戻る。そのクライマックスの場面となるのが無人駅の高瀬駅である。駅を見て映像の駅と全く同じだと歓声を挙げていた。そして写真も撮ったのである。

 最後にタエ子がバスに乗ったのは高沢行きのバスであった。これも高瀬から、その当時未だ開通していなかった紅花トンネル方面に行く道路の途中から、左に曲がってだんだんと登っていく部落への道である。以前、娘と孫を乗せて、高沢の一番奥まで登って行ったことがあるが、当時はこうしたアニメーションを知らなかったので、奥まで行ってただ引き返してきたのである。印象は山奥の部落とか開拓村といった風情であった。今では紅花トンネルが出来て、天童市や山形の中心地にも数十分で行かれる地理関係になっている。

 アニメーションの中で、紅花摘みの大変さ、紅花の作り方、芭蕉の紅花を読んだ句、自然とはどんなことを学ぶことができた。芭蕉は、尾花沢から山寺を経て高瀬付近を通っているが、その時に紅花を読んだ句が、「眉掃きを俤(おもかげ)にして紅粉の花」と「行末は誰が肌ふれむ紅の花」の二句らしい。恐らく後者の満開の紅花畑を読んだのが、高瀬のものではないかと考えられる。

私が考えていたことと同じだと思ったのは、都会の人は田舎の風景を見ると、それが自然だと感嘆するが、それは人間とのかかわりで出来た風景であり、長い年月をかけて人間と自然環境との調和の結果できあがった風景であるという話の部分であった。例えば、羽黒神社の杉木立は有名であるが、それはもともと自然に生えていたわけでなく、何百年も前に人間が植えたものであり、現代では羽黒神社の風景そのものとなっているが、もともとの自然そのものではないのである。自然のままなのは世界遺産の白神山地くらいではなかろうか。こんなことも、このアニメーションを見て学んだことであった。

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