植物の世界では、変わり種やはしりものが社会の中で大きな役割を役割を果たすことがある。例えば、野生種の稲は脱粒するのが一般的で、それぞれの稲穂が完熟すると、穂から実が脱粒していた。その当時の人々は、その野生種の稲の穂先を刈り取って利用していたのだ。そのために稲によって穂が完熟する時期が異なることになり、何度も穂刈りをしなければならなかった。
早稲のコシヒカリ(8月中旬)
そんな野生種の稲の中で、脱粒しない変わり種があることを見つけて、それを増やすことによって、ある決まった時期に米を大量に収穫できるようになった。こうした変わり種を選ぶ人為選択は、最初は偶然の産物を利用したものだったが、その結果、大量に計画的に米を生産することが可能になったのである。
変わり種が、社会の我々の生活を飛躍的に変化させる可能性がある。植物の変わり種探しが行われ、社会的に価値があると判断されると、大きな需要を生み出して莫大な利益を得ることに繋がる。現代では、こうした変わり種探しを越えて、人為的に品種改良を行って好ましい性質を持った植物を作り出そうとしている。例えば、美味しい米を作るために、害虫に強い、倒伏しない、美味しい食味を持った稲の品種改良を行うなどはその例である。山形県では、数年前に品種改良された「つや姫」を知事が率先して、売り出そうとしている。春先になると、吉村知事(女性)が長靴を履いて水田で田植えを行うなど、「つや姫」をマスコミに取り上げてもらうべく力を入れている。
それまで山形ではドマンナカ、ハエヌキなどの有名品種があった。ハエヌキなどは食べても美味しいのに、なかなか特上米にはならなかった。その種籾が他県に入って、誰でもが栽培できたからである。山形ではドマンナカよりはハエヌキの方が優勢であるが、ドマンナカは米沢牛を使った牛肉弁当では、今でも使用されている。しかし、ハエヌキの方が山形県内では一般的である。
晩生種 アイチノカオリ(8月中旬)
こうした過去の苦い経験から、山形県では今のところ、「つや姫」の栽培農家を限定して作付けしている。また初期の頃には、その種籾を持ち出した人に対して、裁判沙汰を起して県外に流失し栽培されることがないように対応していた。こうした行為は「つや姫」を県内だけで作付けすることで、米の品質を維持し社会的価値を高めようとすることが含まれている。「つや姫」は、今ではアキタコマチ、コシヒカリなどと同等の特上米としての評価を受けている。このように、変わり種のその特性が社会で意味があると判断されると、高い商品価値を持つようになる。
また、変わり種が希少価値であることで珍重されることもある。最近経験したのは、ムラサキシキブの花である。ムラサキシキブはピンクっぽい花が沢山咲いてから、秋口になると沢山の紫色の実をつける。名前と色がとても相応しい植物である。その中に脱色した白いものがある。白いムラサキシキブである。天童のある庭に鉢に植えてある白いムラサキシキブを見かけて写真を撮ったが、蟹江でもある家の庭に白いムラサキシキブが植えられていた。わざわざ家の庭に植えているのである。私は白よりはムラサキ色の方が風情を感じるが、その希少価値の故に庭木になっているのであろう。このように珍しいとか希少だということが価値があるということに繋がっていく。
普通のムラサキシキブ
変わり種のムラサキシキブ
また露地ものの作物よりは、異なる時期にできるはしりものや遅れものの方が高い値段で売れることも希少価値と同じである。私が幼い頃は、ミカンと言えば正月に食べるもので、木箱に入ったミカンを炬燵の中でテレビを見ながら食べたものである。今では、9月や10月でも緑がかったミカンを売っている。昔は、その緑がかったミカンは酸っぱかったのだが、今ではそんな緑色のミカンでも甘い。こうしてミカンの品種改良が進んできたのだろう。同様なことは、イチゴやサクランボでも同じである。露地ものではイチゴもサクランボも6月頃が最盛期だが、ビニールハウスで管理することで、イチゴは12月頃に、サクランボは4月頃に出荷すると、値段が高く売れる作物になる。つまり需給関係のバランスが崩れて高く売れるのである。
昔、宮城県鬼首(おにこうべ)で行われた科教協(科学教育研究協議会)の実践記録発表会で、小学1年生を対象にした「変わり種、はしりもの」という単元の発表があった。毎日の授業の前に、子どもたちに周りで見つけた変わり種やはしりもの(遅れもの)を発表する機会を与えるのである。すると、子ども達は周りを探索するようになる。そして見つけたものには、白いアザミとか、秋深くなって咲いているタンポポとかを紹介していた。こうした変わり種やはしりもの探しは、ただ野山で遊ぶというよりは探すために行動する点で、自然と自己を積極的に対峙させることになる。
普通のノアザミ
白いノアザミ
また認識の問題として考えれば、変わり種やはしりもの探しは、一般的なものと異なるものという認識があって初めて可能となる。また変わり種やはしりもの探しをする行為が、それらの認識の在り方や精度を高める働きもすることになる。こうした授業は、社会で有用なものを探し出す基本的な作業に通じるものなのである。
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