雑草という植物

その他編

すみ分けのところでも述べたが、動物ばかりでなく植物もすみ分けている。同時点での地域的な棲み分けばかりでなく、同じ場所を時間的なズレによって、植物同士が棲み分けをしている。例えば、原崎沼の遊歩道の途中にある「網張の里(あみはりのさと)」という原っぱには、春から夏にかけてはニガナ、ウツボグサやトウバナなどが、その後にはネジバナやクサレダマなどが咲くようになる。その後にはススキの他に、ヒヨドリなどのフジバカマの仲間やアカバナなどが咲く。こうした植物の季節ごとの変化は、植物に興味がある人間にとっては大きな楽しみである。ところが春から夏になると、その原っぱが草茫々になってしまう。その原っぱには、細長い畦の小川のようになっている水溜りにメダカ、マツモムシやミズカマキリなどが住んでいる。そんな環境だから、花の蜜を求めてヒョウモン蝶、他にイトトンボ、シオカラトンボなどの昆虫類も集まってくる場所となっている。

  ニガナ ウツボグサ トウバナ

 私自身は、毎年この原崎沼の遊歩道の季節ごとの変化を楽しみにしており、1週間か2週間ごとに出かけている。何年間にわたって一種の定点観測を行っているとでも言えようか。1年周期で色々な動植物の変化が見られるばかりでなく、年を経るごとにある植物が優勢になったり劣勢になったりする様子が変化していくのである。その定点観測では、偶然に出会う動物もある。例えば、春の半ばにコサナエトンボに出会ったり、5月の終わりにチョウトンボを見かけたりした。何と一か月以上も早く羽化ししてしまったのではないかと思う。これでは命を繋ぐ営みはできないだろうなと心配してしまった。先日はその遊歩道をカモシカが横断していった。人里に近いところにカモシカがいる筈がないと思うのだが、そんな偶然の出会いも定点観測の楽しみである。

  ヒヨドリ(フジバカマの仲間)

 こうした「網張の里(あみはりのさと)」が夏に草茫々になると、人が入ってその草を刈ってしまうのである。恐らくこの原っぱが雑草で覆われたから刈ったのであろう。面白いことに、そこの水溜りの近くにヒマワリが何本か植えられていて、人が入って害を与えないようにと、ヒマワリの周りを縄で囲んである。原崎沼を取り囲む遊歩道は、自然を楽しむために設けられたのだろうが、その原っぱは人工的に管理されている。植物に興味がある人間からすれば、ウツボグサなど野草が色々な形で生きている姿を見るのにとても大切な場所なのだが、無残にも刈られてしまった。

 こうしたことは他にも見られる。私が住んでいる天童のアパートの西側は畑になっていて、何人もの人たちが来て、朝早くから色々の野菜を作っている。自分の畑に植えてある野菜を毎日世話をしているが、その畑の周りにある雑草については容赦なく刈り取ってしまう。この畑の雑草の中に、カラスビシャクがあったり、ヘクソカズラの花の赤い変種を見つけていたが、それも無残にも刈られてしまった。また宮城県の村田町の山道沿いにはキツリフネの花が咲く場所があるが、道路保全のためか刈られてしまっていた。私が写真を撮ろうと出かけた時には、極くわずかしか咲いていなかった。

 カラスビシャク 左が普通のヘクソカズラ 右が変種のヘクソカズラ

 どうしてこう簡単に刈ってしまうのか。そんな時、私は昭和天皇のエピソードを思い出す。皇居内の広い敷地で、環境整備の人が草を刈っていた。その時天皇が「何をしているのか」と尋ねたそうである。すると、その人が「雑草を刈っているのです」と答えた。それを聞いた天皇は「雑草という植物はありません。皆それぞれ名前があるのです」と話したというのである。後年、このエピソードの元々は植物学者の牧野富太郎のエピソードらしいと知った。昭和天皇も同じ認識だったのだろう。

それぞれに植物名があり、それぞれの生き様をしている。そんなことが「雑草」という名をつけることによって、必要のないもの無駄なものとして扱われてしまうのである。これは「害虫、益虫」という概念とも通じる問題である。人間にとって役立つもの、利用できるものは大切だが、そうでないものは不要なものとして排除する精神がそこにはある。多分、これは私自身の誤解だと思いたいのだが、農家の人たちは植物相手に野菜やコメを生産しているから、雑草と言われる植物の生態を知悉しているのではないかと思う。野菜やコメの生産を第一に考えて、雑草はとにかく排除すべきだとする思想が農家の人たちにも蔓延しているのかどうか知りたいところである。日本のコメの生産は、ずーっと工場生産のように生産量を多くする努力をしてきたが、その行きつく先には、自然のしっぺ返しがあるのではないかと危惧している。

   オモダカ

天童のある水田に行くと、オモダカの仲間やコナギなどが生えている。多分これらのためにコメの生産量は減っているに違いない。これらの植物は毎年見かけるから、排除するのが難しく取り除くことを諦めているのかもしれない。そう考えると、雑草といわれる植物もしたたかな戦略で生き延びている可能性がある。

植物に興味がある人間からすると、雑草といわれる植物に対しても人間本位ではなく、これらの植物に優しい接し方があるのではないかと思う。地球は人間のためだけに存在しているのではない筈だから。

 

コメント