カイコ

動物編

鶴岡のマリア幼稚園に何年にも亘って保育助言・指導に出かけた。初めは造形研修会の発表準備の手伝いで、発表予定の主任の佐藤由紀先生と何度か打ち合わせをした。

 カトリック系の幼稚園で園長が神父で何年か毎に転勤していくので、副園長の渡會(わたらい)千鶴子先生(今は園長)が幼稚園の運営を任されている。この渡會先生は動物好きで園内は附属動物園といった様相になっている。幼児の下駄箱の上には金魚、羽黒メダカの水槽があり、下駄箱の下やその周辺には、沢ガニ、アズマヒキガエル、トウホクサンショウウオ、クロサンショウウオ、イモリ、シュレーゲルアオガエル、はたまたウナギなどがタライ状の入れ物で飼われている。

 園で幼児たちが遊んでいる砂場の場面をデジタルカメラでカシャカシャ撮りまくっていたら、ある先生が教室からカイコが繭になっている箱を出してきて、私に見せてくれた。格子状の紙の枠にいくつかの白い繭が入っていた。中には繭玉の穴が開いて、ガが出てきてしまったものもあった。ガの中には次世代を繋ぐために交尾中のものも見られた。

 その先生の言うには鶴岡市(羽黒の松が岡)から各幼稚園にカイコ飼育の募集があり、それに応じてカイコを育てている。桑の葉も定期的に持って来てくれるということだった。今は四クラスが蚕を育てているが佐藤由紀先生が中心になって三~四年間カイコを育ててきたそうである。飼育中に繭になりガになったものが交尾して、産んだその卵を育てた繭だということだった。育てたカイコの繭とガの大きさのバラツキが大きいと話してくれた。何故そうなるかと私に尋ねてきたのである。

  私は聞いた瞬間に雑種一代(F二)のことを思い出した。小麦やトウモロコシの収量を多くするために雑種一代(ハイブリッド種)を作り、それを植えると均一で大量の収穫ができることを知っていた。人口増加に対応するために東南アジアでは米の収量を多くするために、このハイブリッド種を使い増産させたことがある。その当時「緑の革命」と言われていたと記憶している。このように雑種一代で現れる特徴が雑種一代同士を掛け合わせると、雑種二代(F二)では同じ収量にはならないのである。そこで農家の人たちは毎年高いハイブリッド種を購入しなければならない羽目になる。そんなことを知っていたのでその先生には雑種一代の話をして、その都度買わせる仕組みになっていることを説明した。

インターネットで調べてみたらハイブリッド種による増産方法では、肥料を大量に使うことが前提で田畑に化学肥料を大量にぶち込むとある。その結果土壌の生態が崩れて劣化が起こり、結局は大量に収穫することができなくなる。長期的なスパンで考えずに短期間での収量だけを考えた結果だろう。長期的に安定した穀物生産をどうするかをよく考えてみなければならない。

インターネットによるとカイコの雑種一代は明治の末まで遡るという。野菜や穀物に比べてずーっと以前から行われていた。日本の養蚕業はそのカイコの品種も多く、その改良も群を抜いていたとのことであった。

「ああ野麦峠」(山本茂実 朝日文庫)を読むと、明治から大正、昭和の初期まで、日本の養蚕業が日本経済の基幹産業であり、輸出額の大きな割合を占めていた。こうした品質の良い大量に生産できるカイコの生産こそが日本を支えていたのである。諏訪湖近くの岡谷の製糸工場には、岐阜県の高山等から集団で一〇代の女性たちが野麦峠を越えて長野県まで歩いて働きに行った。その当時高山の農家の殆どは一日の食べ物も十分でなく粥をすする状態が一般的だった。そうした状況から抜け出すために、親たちはお金を製糸会社から借り、娘たちは白いご飯を食べられるという期待と、お金を稼いで実家に帰ることを夢見て働きに出たのである。ところが職場環境は劣悪で、高温と湿気のために体を蝕まれる女性が多く、そのために結核を患う等で実家に帰されるケースが起こったという。場合によっては死ぬ寸前のものを親たちが引き取りに来て帰る途中に亡くなるケースや、ノイローゼになって諏訪湖に流れ込む川で入水するなどの事件もあったという。

その当時は日本の生糸や絹織物が輸出の代表的なもので、そのお金を使って日本の重工業の基礎や軍艦を作った。明治から昭和の初期までは、官立の富岡製糸工場や民営の岡谷製糸工場等が日本を支えていたのであり、それには婦女子が重要な役割を果たしていたのである。富岡製糸工場もそうした婦女子の犠牲を強いた日本の歴史を含めたものとして、世界遺産となったことを肝に銘ずべきではなかろうか。

岐阜県の世界遺産である白川郷や山形の田麦俣の茅葺屋根の多層民家、京都府の美山かやぶきの里などを見学すると、必ず二階や三階に蚕室(さんしつ)がある。他にも古い農家では屋根裏に蚕室があるのが一般的だったのである。今はカイコを育てている地域は殆どないが、このように昔は日本のそこかしこで養蚕が盛んだった。昔は植えられていた桑の木の切株だけが残っている畑が今でも多数見られる。ビニロンやナイロン繊維が石炭や石油から作られるようになって、生糸生産は廃れてしまった。絹の肌触りは良いものだが、それよりは安価で透明で丈夫な繊維であるナイロン等が出てきたために、世界中で繊維材料の転換が起こったのである。これは世界的な傾向で、日本ばかりでなくイタリアでも絹織物が盛んだったが、同様に大打撃を受けたのだった。 世界的に材料の変化による繊維産業の浮き沈みがあるにしても、こうした生糸から繊維を取り出す技術、それを織物にしていく技術が廃れていくことは、文化の衰退を意味する。天平時代の自然色である草木染の紅や青等の色合いや、江戸中期に友禅染の技術ができたことで廃れてしまった、辻が花の絞り染め等の再現には相当な努力が必要だと聞いたことがある。そう考えると、鶴岡市の幼稚園でのカイコを育てる試みは、子どもたちの心に文化や技術の背景にある問題を将来考えさせるための種を蒔いているのではないかと思うようになってきた。(チョウ目 カイコガ科 カイコガ属 カイコガ) 

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