オナモミ認識論

オナモミというのは、子どもの頃友だちとぶつけ合ったり、セーターにひっつけたりして遊んだ植物である。キク科の一年草であるが、夏から秋口にかけて、緑色で楕円形だが先端部が尖っていて表面にたくさんの棘が生えている実がなる。それが乾燥すると、茶色の実になって硬くなる。最近余り見かけないので、環境の変化によるものかどうか分からないが寂しい感じがしている。

オナモミは、同じキク科のアメリカセンダングサや、イノコズチのように動物の毛などについて運ばれて他の場所で擦り取られたり、落ちてそこで芽を出して増えていく戦略をとっているのだろう。この何でもくっつける機能を認識機能の類推として私は「オナモミ認識論」と名づけている。

私たちの周りには色々な事実が存在する。我々は客観的事実という言い方を通常するが、科学史家である村上陽一郎によれば、この表現は矛盾しているという。というのは、事実とはある文化的な文脈のある視点で切り取られたものであり恣意的なものであると考えられ、事実が客観的であるということはできないというのである。私たちは、簡単に当然のように事実というが、その事実は実際には相対的なものだということである。しかし、現実の世界で生活していく上で、いつも事実のこうした危険性を考慮しながら生活していくことは、不可知論的な考え方を生み出し、生活することが息苦しくなってしまう可能性がある。そこで世間の事実の使い方を踏襲して、一応客観的事実があると想定して考えていくことにしよう。

ある事実はそれ自体として存在しているが、それがある法則(規則性)の事例となることによって、事実が事例として存在し、2つの間にある関係を結ぶようになる。その事実は1つの法則(規則性)の事例にしかならないというわけではなく、他の法則(規則性)の事例になる可能性もある。こうしてある事実がある法則(規則性)の事例になり関係づけられることによって、他の法則や事例との関連づけを増やしながら、認識のネットワークを作っていくことが可能になる。このようにして、我々の認識体系は法則と事例の関係や、事例間の関係や法則間の関係というネットワークが作られていき、ある意味のシステム化が進められていく。このような私が体験した例を示してみよう。

小学校や幼稚園などで、梅雨時などにカタツムリを捕ってきて、教室のプラスティックの水槽に蓋をして飼うことが一般的に行われており、カタツムリの生態観察である。教室で飼うために、当番を決めて野菜や草などを採ってきて、それを入れてやるのだが、最初のうちは皆まじめに当番の仕事をしているが、だんだんとそれを忘れて野菜や草を入れてやらなくなってしまう子が出てくる。そうすると、これらのカタツムリは飢餓状態になるわけであり、そのときにどんなものを食べるのだろう。

子供たちが行っ調査で普通に食べるものを挙げると、ジャガイモ、イチゴ、ゆで卵、ソーセージ(食べたと言う子どもとそうでないと言う子がいた)、ダイコンの葉、パン、木の葉、キャベツなどである。しかし、飢餓状態だと、ノートなどの紙、障子紙、ティッシュペーパーなども食べる。

本当は好きでないのだが、生き延びるために食べるのである。私たちと同じでカタツムリも好きな食べものと、いざとなったら食べるものがあるという訳である。この例から、「動物には好きな食べ物とそうでないものがあること、また生きるためには普段食べないものも食べる」という法則(規則性)を定式化することができ(オナモミの本体の形成)、それに対応するのが「カタツムリの食べ物」(事例)である。

そこで、こうした例が他にもないかと探してみたら、「川と湖の生態学」(川那部浩哉著 講談社学術文庫)に食い分けと棲み分けについて書かれたところで、「さてすべての動物には餌の好みがある。したがって食物連鎖ができるのだ。しかしたいていの動物は二種以上の餌を食う。その食い方は何で決まるのか。一番好きな餌というのがある。それでも良いというのがある。双方では足らぬときに限って食う非常食めいたものもある。餌の量全体の多少により、空腹の状況により、選択性は変化する。―― 同じ餌をめぐって二種以上がいわば競争するばあい、一方の種はその餌を他方の種にゆずり、次に好む餌を食うのが動物界の原則である。これを食い分けという。別の解決方法もあって、それは生息場所を変えることだ。これはふつう棲み分けと呼ばれる。―― 一つの例を出せば、北海道の三種のマスは、上流と下流へ棲み分けている状態では、水面から水底近くまで餌をすべて共に食う。しかし共存域では、一種は水面の、一種は水中の、一種は底近くの餌だけを食い分ける」と述べられていた。自然状態でも、こうした食性のありかたが個体や種の生存と関わりあっていることが分かる。

他にはないかと探していたら、「才造どんとごろさくざゑもん」(作 出井光哉 画 小林敏也 パロル舎)の題名「大根づくりの名人」の中に、同じような事例が載っていた。月に一度の市に出品するために、その村で一番の野菜作りを競い合うという場面である。よい大根を作れば良い収入が得られるというわけで、それぞれの人がカボチャやニンジンなどの名人になろうとする。年若い才造どんはみんなの前で「おら、立派な大根をつくって評判をとるだ」と宣言すると、それを聞いた村人たちは、年若い才造どんに「大根づくりの名人」の評判を取られたのではおもしろくない。そこで、みんなで大根づくりを始めることになる。ところが、それを聞いても才造どんはにこにこしているばかり。しかも自分の畑には、大根だけでなくキャベツの種をまき、しかもキャベツの方が多いのだ。そこで、それを見たごろさくざゑもんがからかって、「おいおい才造どんや、お前大根をつくるんじゃなかったのかい? 種をまちがえてるのとちがうかい。」でも「いいや、これでいいんだよ」と答える才造どんだったのである。ところが、大根の若い葉が畑をおおうようになると、蝶たちがまっているのだった。それはモンシロチョウである。大根の若葉に降りると、葉の裏に小さな卵を産みつけるのだ。それが孵って青虫になり、大根の葉をさくさくむしゃむしゃ食べて大きくなる。才造どんの畑でも、モンシロチョウが舞っていたが、狂って卵を産みに降りて行くのは、決まってキャベツなのである。才造どんの大根の葉には、ちっともとまらなかったのである。市にたくさん運ばれた大根のうち、才造どんの大根が立派で、大根づくりの評判をとったという話である。

この例から、モンシロチョウの幼虫にも食べる葉の好みがあるらしいということがわかる。才造どんはこうしたモンシロチョウの習性を理解したうえで、大根づくりをして名人になったということになる。

「動物には好きな食べ物とそうでないものがあること、また生きるためには普段食べないものも食べる」という法則(規則性)を作ると、これに合う事実がないかと探索するようになる。法則や概念はこうした行動を誘発する機能を持っている。

そこであるとき、また新たな事例を見つけた。というのはクロードベルナールの「実験医学序説」の中に、医学を実験的に実証しながら進めるなかで、ウサギを絶食させると肉を食べるようになるというのである。(これは人の書いたものでの記憶なのでまだ本書による確認はしていない)ウサギなどは草食動物で腸が長く、ウンコはコロコロウンコのはずである。セルロースを分解できるような働きや腸が長いなどの消化器官が持てるようになっているのだが、そうした食べ物がなく肉を与えられると、仕方なく命をつなぐために肉食するというのである。だとすると、きっとウンコはベシャベシャウンコに違いないと思うのだが、実際どうなのかは分からない。でも、こうした極限の状況に追い込まれると、動物は生き延びるために、普段食べないものも食べるのだろう。

こうして、この法則(規則性)に対して、カタツムリ、大根づくり、ウサギの事例の3つが関連づけられるようになった。オナモミ認識論と私がいうのは、こうやって新しい事例をくっつける作用があるとの意味である。

こうした事例から、時間的なスパンを含んだ延長線上で考えると、クマであるパンダのササを食べる食性もより理解できるようになるのではないかと考えられる。

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