天童から蟹江に戻ってから一年半が過ぎようとしている。その間に三回伊勢神宮に出かけた。豊受大御神を祀った外宮を参拝してから、天照大御神が祀られている内宮に参拝しているが、内宮のある神宮の森は荘厳で神々しい雰囲気があってたまらない。参詣するための道の小砂利も大きさが一様で、その内宮の神殿まで歩いていく非日常を感じさせる一要因となっており、それ等を含めて清々しい気持ちになるから不思議である。この砂利の撒布は、年に三度の奉仕作業の一環として敷かれているという。
参詣した帰りには、おかげ横丁で土産物を見たり日本酒を買ったりする他に、最近は伊勢うどんを毎回食べている。はじめは腰のないだらだらうどんだと思っていたが、その味と軟らかいうどんにも慣れてきたから不思議である。慣れてきた原因を考えてみると、小さい頃に母が関東煮(おでん)の最後にうどんを入れて食べさせてくれたことと、朝になって鍋に残っているうどんを煮直して食べさせてくれたので、うどんは溶ける寸前の柔らかいうどんになってしまっていた。そうした経験が一つの原因だったことと、うどんには名古屋の味噌煮込みうどんのように固いうどんと、博多の柔らかいうどん文化があることが分かってきたことも、そうした伊勢うどんに対する偏見や抵抗がなくなってきたことに繋がっているのではないかと思う。
伊勢神宮に出かけた時には、日帰りではなく近くのホテルや旅館に宿泊して、海産物を食べることを楽しみにしている。しかしそれなりに値段は高い。それでも箱根や伊豆半島のホテルよりは格安だと思うが、何せ年金生活なので美味しくて安い旅館があれば申し分ない。ましてや伊勢や鳥羽はアワビ、イセエビの海産物が昔から有名だから、そうしたものも食べてみたい。相反する条件を満たすものはないかということになる。
アワビやイセエビを食べさせる安い場所がないかと探してみたら、鳥羽市の海沿いの民宿が見つかった。民宿には泊ったことはなかったが、ホテルよりは安く夕食の品数もかなり多いことが分かったのでそこに予約した。
伊勢二見鳥羽ラインから第二伊勢道路を経由して、鳥羽南白木インターから山あいに入っていく道路があり、目的地は的矢(まとや)湾近くの相差(おうさつ)町の民宿だった。(以下は相差漁港)
近くには多数の民宿とホテルがあり、ここの人たちは海産物の料理を出して、お客を呼んでいるようだった。産業と言えば漁業しかなく、近所の住民は民宿やホテルに勤めて現金収入を得ているようで、町の雰囲気でもこうしたことが分かった。
民宿なのでその周りは住宅地で隣の家の屋根が迫っている。そして町内会の連絡用のスピーカーがあって、弘道小学校の翌日の資源ごみ収集の連絡もつぶさに聞こえてくる。民宿らしいといえば民宿らしい立地条件だった。
でも温泉はナトリウム泉で温かく肌に軟らかく、下呂温泉にも負けないような温泉だった。夕食にはタイのお頭付きの刺身、アワビの刺身、つぶ貝、サザエの刺身、伊勢エビの刺身、エビフライ、イサキの煮物等の海産物料理が満載だった。今回の宿泊料は一万円で伊勢神宮の近くのホテルや旅館なら一万八千円位するのではなかろうか。私はイセエビの刺身はこれまで殆ど食べたことはなく、さすがに漁港近くの民宿だと感激した。この民宿では夕食に出たタイのお頭とイセエビの残った頭を、朝食の煮つけ(タイ)、みそ汁の具(イセエビ)にして出してくれる。こんなこともちょっとしたサービスだが、素材を無駄にしない心遣いが嬉しかった。それらがまた美味しく食が進んだのだった。
朝になって民宿を出て近くの相差(おうさつ)漁港に出て、トビの写真を撮っていたら、港でおじさんやおばさんたちが座って刺し網から何かを外す作業していた。近くに車を停めていたので、作業をしている人たちの様子を見ていたら、刺し網から魚を取り外している。海水の入ったバケツにはカワハギやイサキが入っていた。そこで作業しているおじさんに「刺し網で魚を捕っているんですか?」と尋ねたら、「イセエビを捕っているんだ。」と応えた。別のバケツのカバーを外して、沢山のイセエビが入っている中の二匹のイセエビを取り出して見せてくれた。そのイセエビは私が民宿で食べたイセエビよりは数段大きく立派なものだった。一匹数万円するのではないかと思った。 (見せて貰ったイセエビ)
海のどこに刺し網を入れているのかは分からないが、その刺し網もそれ程丈が高いものではなく、それ程大がかりな仕掛けでもなかった。この辺りの海にはたくさんのイセエビが生息しているのだろう。イセエビは夜行性だから夕方に網を張って夜活動するときに網にかかるようにセッティングしているに違いない。またイセエビの名称から伊勢志摩周辺だけで捕れるかというとそうではなく、千葉県の九十久里浜や茨城県の鹿島灘でも捕れるとテレビで放映していたのを視たことがある。その名前がつく程この地方はイセエビの宝庫なのだろう。
この伊勢志摩は昔から海産物の宝庫で、律令国家の頃には租庸調の調(ちょう)または贄(にえ)として、朝廷に収められていたと言われている。伊勢(クロダイ)、志摩(アワビ)だがイセエビの名前は出てきていない。その当時はまだ食べていなかったのだろうか。ただ伊勢志摩はリアス式海岸で、その入り組んだ自然環境からアワビやイセエビが生息するのに適した環境であることは想像に難くない。
調べてみたらイセエビの生産量が二六四トンで三重県が日本一であり、イセエビが住みやすい環境は海底三〇メートル位までが最適であること、そしてリアス式海岸の故に海草なども繁茂しており、黒潮に乗ってプランクトンも大量に流れ込んでいることが最適な
条件であることが分かった。イセエビはその生存場所で産卵するが、その幼生はフィロソーマといい葉っぱのような平べったい形をしている。それが黒潮に乗って東日本の方に流れていく。そして一年程経つと逆の海流に乗って伊勢志摩に帰って来るという。その伊勢志摩の海に戻ってきた頃にはフィロソーマがプコルルスという幼生に変化していく。それが三週間程で脱皮して私たちが知っているイセエビの稚エビになるという。こう考えると伊勢志摩のリアス式海岸の浅い海、そして海草が豊かなこと、プランクトン等が流れ込んでくること、結果としてイセエビの餌となる貝や甲殻類(エビやカニ)が生存し易いことが合わさって、イセエビがこのように沢山生存できるのだろう。これらの条件は偶然の結果だろうが、こうした環境を人間が人工的に作るとしたら大変な努力と費用が必要になる。こう考えると昔から日本人は伊勢志摩の海から自然の恵みをいただきながら生活してきたのだなぁと感じざるを得ないのである。(十脚目 イセエビ科 イセエビ属 イセエビ)
コメント