晩春に道端や野原一面に咲くのがイネ科チガヤ属のチガヤである。狼の尾のような銀白色の穂が風にたなびいているのはとても美しい。
チガヤの穂 その1
福島の相馬火力の道端にも生えていて、その写真を撮ったのが初めてである。だんだん枯れてくるとススキの穂のようにパサパサになるので風情はなくなるが、最初に穂が出てきたときの銀白色のチガヤの美しさは忘れられない。
このチガヤに興味を持つようになったのは小椋佳の歌にワタスゲを歌った曲があり、そのワタスゲは湿原で咲くのだが、残念ながらいまだ見たことはない。図鑑のワタスゲの写真を見ると、白い毛玉のような穂を出していていつか見たい存在である。
そうしたワタスゲのイメージとチガヤのイメージが私の中で結びついていて、チガヤの銀白色の色合いがワタスゲと重なってとても綺麗に感じるのである。
そのチガヤを採って友人宅の一輪挿しにして飾ってもらったところ、日本間にとても合う植物だと感じた。たくさんの花を花瓶に飾ってその勢いで綺麗だろうと押しつけるような現代風の風情ではなく、一輪挿しは日本間でちょっと気がつくと初めてその存在が分かるようなものであり、日本人の楚々とした心情と合うからだろうか。
最近ではフラワーアレンジメントというのか、花をたくさん集めてそれを花束や花籠にする技術の習得を行う講座や教室がある。ガーデニングと称してイギリスのガーデンを模倣して、たくさんの鉢植えの花を玄関先の階段や塀の周りにつるして家の周りを飾って花を楽しむ人がいる。それはそれで良いのだが、こうしたガーデニングはヨーロッパの環境や動植物を人間に都合よく変えて楽しむ思想と繋がっている。だからそうして飾られる花は華やかであるが、人工的な花のような気がしてならない。
チガヤの穂 その2
近年日本の盆栽が世界中に広がっているようである。高級なものになると1千万円を超えるようなものもあり、海外からその盆栽を買いつけにくるなどもあると聞いている。盆栽は自然の四季の風情を日本間に持ち込むもので、盆という小さな世界の中で自然を小さく纏めるのである。植物をその盆に植えて育てることはその植物に無理を強いることを意味している。枝を切ったり銅線を巻きつけて、その形を無理矢理に風情が出るように変えるのである。これは日本人が考えた一種の芸術だが、自然と人間の感性の調和を求める思想によると考えられる。
短大では入学式や卒業式の際、その演壇の脇に人から貰った大きな松の盆栽を置く。それを何年間も総務課の人が、学校の正面玄関の脇に置いて管理している。しかし段々と葉が落ち枯れてきだした。本来の松の生き方を敢えて曲げて生かしているのだから、その生命力をうまく調整できなければ姿形が変わるか松は死ぬしかないであろう。
盆栽が欧米の人たちに受け入れられる要素が、盆栽の中にあるような気がする。自然を人間に合わせることを強いることはヨーロッパ思想と通じるのである。先日テレビを視ていたら、盆栽を作っている名人の所へ世界中から住み込みで習いに来ている外国人の生活を放映していた。盆栽の思想と技術を学びに来ているのである。盆栽は日本の文化の一端だから、その文化が世界に広がることは好ましいことだが、それを受け入れる思想がヨーロッパの中にあることも忘れてならないだろう。
私自身は、野草の花の色の美しさや雑木林の木々は、品種改良された人工的な色や植物よりは素敵だと思えてならない。東北の雑木林の素晴らしさは、盆栽の素晴らしさを越えるような気がしている。冬になると山一面が落葉して墨絵のような風景になる東北の自然は、私にとって一生忘れられないものである。そうしたことをチガヤの一輪挿しを通じて考えたのである。
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